Cadd9 #35 「それがあなたなら」
ナスノさんの病室に行く前に、病院の売店でヤクルトを買った。入院してからナスノさんは急にヤクルトを気に入ったらしい。病室に持っていくといつも喜んでくれるのだと、ミナミから電話で聞いていた。
会計のとき、売店の女性に「久しぶりね」と声をかけられた。樹が最後にその売店を訪れたのは、一ヶ月近く前のことだった。樹はどう返事をするか迷って、はあ、と一言だけ返した。友達とつるむことがなくなったせいか、このところ人と適当な会話をするのが下手になったような気がする。
一階の受付で聞いた階に上がり、念のため詰所で何号室か聞いた。やはり以前とはちがう病室になっていた。
「ナスノさん。来たよ」
寝ているだろうと思っていたが、ナスノさんはベッドの上で黒々とした目をぱっちりと見開いていた。
「俺だよ。わかる?」
顔をのぞきこむとナスノさんはわかる、とほとんど息だけでしゃべった。ナスノさんはずいぶん小さくなっていた。肩から下は薄い毛布に覆われていたが、毛布が膨らんでいる面積の小ささに、樹は少し身構える。
ストローをさしてヤクルトを手渡す。一緒に暮らしていたとき、ナスノさんは果物の缶詰が好物だった。シロップ漬けのバイナップルやみかんはいつまでもしゃぶっていたのに、ヤクルトは息継ぎもせずに二口か三口で吸い込んだ。樹はなんだか安心して、ほっと肩の力を抜いた。
「なかなか会いにこれなくてごめん。忙しかったんだ」
何が忙しかった、とかすれた声でナスノさんは言った。
「働いてるんだ。少しだけどね。暇でいると落ち着かなくて」
学校は、とたずねながら、空になったヤクルトの容器を返す。
「ちゃんと行ってるよ。でも、勉強をしに行ってるだけだ。おもしろくもなんともない。働くほうが性に合ってる気がする」
ナスノさんはため息とも笑いともとれる息を吐いた。同時に胸のあたりがごろごろと鳴った。顎に雫がついている。樹はベッドの横にあったティッシュを一枚とってそれを拭いた。
「身体の具合はどう?」
大丈夫、とナスノさんは言った。
しばらくするとナスノさんはミルクを飲んだあとの赤子のようにうとうとしはじめたので、樹は横になるのに手を貸した。背中が軽い。ナスノさん、という存在から、すでに何かがするすると抜け出てしまっているのだ。
「ナスノさん」
横たわるナスノさんの顔を上から覗き込み、意味もなく名前を呼んだ。返事はなかった。もう寝ている。死に近い人の眠りだった。
樹は鞄に入れておいた本を取り出して、ベッドの横のスツールに座って読んだ。もう少しここにいたかった。あの家で一緒に暮らしていたときと同じように、またふたりきりで過ごしたかった。ナスノさんが昼寝をしているあいだ、よくこうして隣で本を読んだ。縁側から吹き込む乾いた風と、ふとしたときに感じるイグサのにおい。穏やかなナスノさんの寝息。
一時間ほどして、ナスノさんは目を覚ました。
「欲しいものはある?」と樹は聞いた。
ない、とナスノさんは天井を見上げて言った。
午後、近くに喫茶店があるバス停でミナミと待ち合わせた。樹が着いたときにはミナミはすでに到着していて、重心を片足にかけて腕組みをして立っていた。髪を少し切ったように見える。チェック柄の、淡い黄色のワンピースを着ていた。ミナミがワンピースを着ているのを見るのはそれがはじめてだった。
「似合うな」と、開口一番に樹は言った。
「そう?」
ミナミはつんとした横顔でこたえると、ずんずんと喫茶店に向かって歩いていった。樹はそれについていく。樹は、これじゃまるでミナミに飼われている犬みたいじゃないかと、ひとり自分に呆れて笑った。
「それで、妹さんとはどうなの?」
ミナミは冷たいミルクティーをストローで吸い上げ、顔にかかった髪を両耳にかけた。
「仲良くしてるよ。前より少し大きくなってた。今これくらい」
樹は床から沙耶の背丈くらいのところで手のひらを水平にした。
「そうなの。久しぶりに会ったんじゃ気まずいんじゃないかと思ってたけど、仲がいいならよかったわ」
「うん。ミナミはどうしてた?」
「ずっと布とにらめっこ。始めは採寸の仕方を勉強して、今は手縫いで小物をつくってるの。ポーチとか巾着とか。あとは型紙ね。こんなにすぐ実技にかかるとは思ってなかったけど、それなりにおもしろいわ。前から母に習ってたから、ほかの子と比べて失敗も少ないし、今はまだ勉強も楽なの」
「ほかの子ね。ほかにはどんな人がいるんだ?」
「あんまり話さないからよく知らない。私、本当に思ってることしか言えないから、きっと冷たい人だと思われてるんじゃないかな、たぶん。誰かと話していて、この人はこう言ってほしいんだろうなってわかっていても、それが私の本心じゃないときはどうしても言えないの。上手に言えたらいいんだけどね」
「俺はミナミの正直なところが好きだ」
「ありがとう」
ミナミは肩をすくめて照れくさそうに笑った。樹はその何気ない仕草に自分の顔が熱くなるのを感じた。どこに目線をやればいいのかわからなくなる。ミナミの首筋を見ていても、腕を見ていても、耳を見ていても落ち着かなかった。
「今日帰ってくること、相場君には伝えたの?」
「言ってない」
「どうして?」
「なんとなく」
予定が決まったときに直の家に一度電話をかけてみたが、留守なのかつながらなかった。これからは最初の予定どおり二週間おきに帰ってくるつもりだったし、まあいいかと思って、それからは一度もかけなかったのだ。
「今から家に連絡してみる? 呼んだら来てくれるかも」
「べつにいいよ。わざわざ呼ばなくても」
「どうしてよ。会いたいでしょう?」
「いいよ。べつに」
樹はそっけなく返してコーヒーカップに口をつけた。ミナミは不思議そうに樹を見ている。
「どうしちゃったの? まるで前の相場君みたいよ。中身が入れ替わっちゃったんじゃないの?」
「前の直みたいって、そんなに前とちがうのか、あいつ」
「会えばわかるわ。なんだか、ずいぶん適当な感じになってるわよ」
やはり、樹は以前とはちがう直をうまく想像することができなかった。あれだけ目の前で起こるひとつひとつの出来事に真剣だったのに、適当になった? 歩くのも、立ち上がるのも、一言言葉を発するのも、何もかもに一か八かと運命を賭けるように生きていたあいつが。挙句、口調が俺に似て、他人の家を転々としている? それはもう別人としか思えなかった。しかし今考えてみれば、最後に会ったときも、直はどことなくいつもと雰囲気がちがっていたような気もした。ずっと背負っていた荷物をどこかに半分置いてきたような。あいつの中で、いつの間にそんな変化が起こっていたのだろう?
喫茶店を出たあと、ミナミが近頃ふたつ隣の駅近くにできたというメディアショップに行きたがったので、電車でそこへ向かった。着いてみると、ほかの古びた建造物のなかで、その真新しい建物は無理やり合成されたように浮いて見えた。しかし物珍しいからか、店内はそれなりに客がいた。
その店で、ミナミは本を一冊買ってくれた。それは吉本ばななの「キッチン」だった。樹は読書が好きだが、誰かに本を買ってもらったのは初めてのことだったから、とても嬉しかった。お返しに樹もミナミに本を買うことにした。どれでも好きなものを選んでくれと樹は言ったが、ミナミは店内を十分間ぐるぐると回ったあとで「やっぱりツキモリが選んで」と言った。
数分迷って、樹は一冊の写真集を買った。表紙に惹かれたのだ。金色の雨が降る中、ひとりの女性がアスファルトの地面に人魚座りをして、空を見上げている写真。中身を見てみると、どの作品も美しかった。ミナミも横から本を覗き込んだ。
「私、この写真が一番好き」
ミナミはとあるページを指さして言った。
「とてもきれいだと思うわ。優しくて、あったかいの」
「そうだな」
樹は言った。その写真は日暮れの草原を写したものだった。どんよりとした雲が浮かぶ空は、雲の隙間から濁った黄色い光を放っている。その下に、深緑色の暗い草原がどこまでも広がっていた。
樹はその風景から、とてつもないわびしさを感じた。息が詰まるような、もうこれ以上どこにも行けないような寂しさが、そこにはあるような気がしたのだ。しかしミナミがきれいだと言うなら、優しくてあたたかいと言うなら、きっとそうなのだろう。そうにちがいない。
「今日中には帰ってしまうんでしょ?」
駅に戻ると、ミナミは腕時計を見ながらそう言って、外に置かれたベンチに座った。樹も時間をたしかめた。午後四時だった。店を出たあと、ふたりで近くの公園をぶらぶらしているうちに、思ったより時間が過ぎてしまった。
「うん。明日も朝からバイトがあるからな。ちょっと時刻表確かめてくる」
「私も行く」
構内へ向かう樹に、ミナミも気だるそうに立ち上がってついてきた。
そこは物置小屋のようにも見える小さな無人駅で、来たときも思ったが、悲しくなるくらい廃れていた。ほかに人の姿は見当たらない。古い蜘蛛の巣がはりついた時刻表を見上げていると、ミナミが腕をからませて肩に頭をもたせかけてきた。
「疲れたか?」
「ううん」
ミナミは首を横に振った。
ミナミを家まで送って、テルジの家に少し顔を出す時間を入れても、帰りの電車には充分間に合うな。時刻表を見上げながら考えている間、ミナミは視界の端からじっと視線を送っていた。そして、ねえ、とミナミは囁くように言った。
「私があなたをどれだけ好きか、あなたにはわからないでしょうね」
ミナミは少しすねたようにそう言った。
「なんだよ。急に」
樹が乾いた声で笑うと、ミナミの瞳が悲しみで翳った。
「あなたは自分がどれだけ愛されているかわかってない。私や、相場くんや多川さんたちや、ナスノさん……それにほかの大勢の人たち。みんなにとって、あなたがどれだけ大きな存在だと思う?」
「そんなこと考えたこともないよ」
ミナミは呆れたようにため息をついた。
「言っておくけどね、私はあなた以外のことはみんな嫌いなの」
「そんな寂しいこと言うなよな」
「いいえ。私は寂しいわ。だってさっきツキモリは、なんだよ急に、って言ったじゃない。でも、少しも急じゃないわよ。いつもそう思ってるんだから。あなたにとっては何でもない瞬間でも、私はあなたを好きな気持ちで胸がはち切れそうなの。ほかのみんなもきっとそう。そのこと、ちょっとでいいからわかってほしいのよ」
やはりミナミは正直者だ。樹はミナミの言葉を聞きながら思った。自分に嘘をつけないということが、時にどれだけ彼女を傷つけ、孤独にさせるか。樹は今触れているミナミの腕が、髪が、香りが、突然脆く消えやすいもののように思えた。
「あなたは完璧。私にとっては欠点さえも完璧。でもね、できないことはできないって、怖いことは怖いって、悲しいときはつらくてたまらないって、私には言ってもいいのよ。そんなことでがっかりしたり、幻滅したりしないんだから。それにあなたの顔ってとってもかっこいいけれど、もし何かの事故で顔の皮膚や骨がずたずたになったって、それがあなたの顔なら私は好きよ。もっとひどい場合、寝たきりになって言葉も通じなくなっても、たとえあなたが何かの魔法にかかって、ちっちゃなちっちゃなミジンコみたいになっちゃったとしても、それがあなたなら好きでいられると思う」
「そんなことにはならないよ」
樹はミナミの真剣な声に耐えきれなくなって、笑いながら言った。
「笑わないで。本気よ」
怒って肩から頭を浮かせたミナミに、樹はほとんど反射的にキスをした。ミナミは樹の背中に両手をまわして、しがみつくようにシャツをつかんだ。
同時にスピーカーからアナウンスが流れ、電車が近づいてくる轟音が聞こえはじめた。構内に風が吹き込み、ミナミの柔らかな髪が舞った。優しいにおいがした。何かがはらはらと壊れていってしまいそうなほど、胸に懐かしいにおいだった。
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