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キリストの愛 釈迦の慈悲 人間の情


しばらく落ち込んでいました\( ö )/

春の陽気にあてられたのか、なんだか知らない間に怖い夢のなかにひとり閉じ込められてしまったように感じられ、海や空や花にさえ目を瞑りたくなり、木々のざわめきや小鳥の鳴き声にも耳を塞ぎたくなっていました。

にもかかわらず、心の奥底では自分は何があっても絶対に大丈夫なんだという確信のようなものもあって、その信仰心と、何もかもが不確かな現実とのはざまで、大混乱しながらぴいぴい嘆いているような状態でした。まだ抜けきれていませんが、いつもなんだかんだでなんとかなっているので、今回もなんとかするのだろうと思います。



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昨年、宗教にまつわる本を数冊読みました。実はいま、新人賞への応募を目指して新たに小説を執筆しているところなのですが、それに伴い、人間と神様の関係性や、人間が抱えている痛苦と宗教の必要性についてどのような捉え方があるのか知りたくなって、図書館で色々な本を読み漁っていたのです。


そのうちの一冊によると、キリスト教が愛の宗教であり、汝の敵を愛せよ、隣人を愛せよ、という教えであるのに対し、仏教では愛は欲であるとして否定され、他人を愛しなさい、ではなく「いかなる生きものにとっても自分自身ほど愛しいものはほかにない、だからこそ他人を傷つけてはならないのだ」という慈悲の教えを説いている、というふうに書かれてありました。

キリスト教の「愛」では、相手を敵、または隣人として見ることで「自分と他人」が分離している一方、仏教の「慈悲」では、他人の苦しみも喜びも、自分自身の苦しみや喜びとして思いやり、「自分の中に相手がいる」と考える。それがキリスト教と仏教が教える愛と慈悲の本質である、と、そういう内容だったかなと思います。(今は本が手元にないので解釈が合っているか怪しいところですが;)


なるほど〜と思う反面、何度心を入れ替えても、なかなかそんな聖人のような思想には至らないのが私の実生活です。

目も当てられないほど精神が弱体化し、心も醜く荒んでしまっているときには、愛や慈悲といった言葉が持つ純粋さが、強烈に眩しく見えてしまう。と言って、「よし、純粋になろう」と思って純粋になれるものでもない。

でも、月並みな言葉ですが、だからこそ人間は愛おしい存在であるとも言えます。仏教で言うところの煩悩にも、キリスト教で言う罪にもまみれたこの世俗で生きる人間にも、何かしら取り柄や持ち味のようなものがあるはずで、私はそれこそが「情」なのではないかなあと、この頃はよく思います。

愛や慈悲がたどり着く先が同じひとつの純粋性であるとすれば、情というのは、傷ついたあとの、何かを知ってしまったあとの、その人だけの美しさなのではないでしょうか。

そして、人の情はいつでも正義の道につながっている、というわけではなく、必ずしも理にかなった行いへ導いてくれるとも限らず、道理や常識の上ではこうあるべきだ、とされているものに反することや、ものすごく面倒でわずらわしい生き様が、人情という観点から見ると、とても思いやり深く、温かみのあることだったりもする。

罪深く、欲深く、業深く、救い難いと言えば、たしかにどうしようもなく救いようがない人間という存在だけれども、だからこそいい、と思えることも、たくさんある。醜い感情を知ってしまうたびに失われる美しさがある一方で、それだけ情の深さが増していくのだと思います。


ところで、私が「情の深い人」というキーワードで脳内に検索をかけて真っ先にヒットする人物といえば、映画「スモーク」に登場する、ブルックリン商店街で煙草屋を営む中年男性、オーギー・レンです。

映画についてはうまく語れそうにないので詳細は省きますが、ハーヴェイ・カイテル演じるオーギーの悲哀のこもった眼差しが、私はとても好きです。彼は粗野でいかつい印象の男性ですが、実際は思いやりのある賢い人物であり、人情に溢れ、時折見せる微笑みの温かさは神様みたいに見えます。


映画の脚本をおさめた、ポール・オースター著「スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス」のなかで、脚本を務めたオースターがインタビュアーに対し、映画についてこんなことを話していました。

「つまり、白黒がはっきりしている人間はひとりも出てこない。みんな矛盾だらけで、善人と悪人にきれいに分けられるような世界には住んでいない。どの人物も、長所と短所を持っている。たとえば、オーギーは最高の時には禅僧に近い。でも同時にケチな山師で、口が悪くて、とんでもなく気難しいわからず屋でもある」
「スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス」/ ポール・オースター(新潮文庫)


こういう登場人物たちのぐちゃぐちゃっとした人間性も、リアルでいいなと思います。


10代の頃は、自分自身が弱い人間であるにもかかわらず、その事実から目を逸らし、「人間なんて」と内心はケッとした顔で世間に背を向けていたようなところもあったような気がします。

が、今は世俗的な苦しみから早く解放されたいと願う反面、どこまでも人間らしく生きたいと思いたくなるような瞬間もたくさんあって、これは個人的には、小さくとも確かな進歩です。

そういう小さな一歩を重ねながら、少しずつでも、自分や人間というものを理解していきたいなあと思っています。


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