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かたつむりが死んだ日から




一日のうち、何度も死について考える。朝、目覚める前の一瞬に、もう死について考えている。空を見て、死について考える。風を感じて、死について考える。かわいい猫に触れて、死について考える。笑っているときも、泣いているときも、怒っているときも、喜んでいるときも、死について考えている。

何かが始まるのと同時に、終わりに思いを巡らせる。友人や恋人との関係が始まったとき、何よりもまず終わりを思う。朝起きて、一日の終わりを思う。毎日、人生の終わりを思う。そして生きていることに罪悪感を感じる。

いつからそうなのだろう。心当たりはある。今の自分になった瞬間のこと。


保育園に通っていた頃、よく園の庭で遊んだ。わたしはけっこう変わった子どもだったと思う。泥遊びや砂遊びの合間に、庭の隅にある水道メーターの箱の蓋を開けるのが、やたら気に入っていたから。


なぜそんな性癖があったのか、自分でもまったくよくわからないが、蓋の裏にはたくさんのかたつむりが集まっていて、それを見るのが楽しみだったのだ。箱は土に埋まっていて、蓋を開けると、湿った空気がむんと広がるのを感じた、ような気がする。


もしかしたら、そんな変わった行為の中で、あのかたつむりを見つけたのかもしれない。わたしの性格を決定づけた大切なかたつむりなのに、出会いの瞬間を覚えていないなんて、失礼な話だ。というより、なんだか悲しい。


とにかく、そのかたつむりは保育園の敷地内で見つけた。淡いイエローの、小さなかたつむりだった。わたしはそれを捕まえた。かわいくて、とっておきたくなった。可哀想だなんて微塵も思わなかった。わたしはかたつむりを自分のロッカーの引き出しに入れた。



しばらくして、図工の時間が始まった。先生はみんなにロッカーから何かを取り出すように言った。わたしはかたつむりが入っていることをすっかり忘れて、勢いよく引き出しを引っ張り出して、引き出しごと床に落としてしまった。


床に落ちたかたつむりの上に、大きな糊の容器が落ちた。殻は粉々に割れ、かたつむりは潰れてしまった。


あの瞬間を忘れない。わたしは呆然と自分の足元を見下ろしていた。何かがすっと引いていくのを感じた。虫が潰れた不気味さと、自分のせいでかたつむりが死んでしまったという恐怖と、生まれて初めてはっきりと感じた「殺した」という感覚に、世界が止まったような気がした。


その瞬間の前と後では、わたしはまったく別の人間になってしまったと思う。その瞬間にもう、今のわたしは完成した。それとも、その瞬間から、ずっと動けないでいるだけなのか。


昔の記事に書いたように、わたしは同じ年頃に、夜中に突然死について考え始め、涙があふれて眠れなくなったことがある。そして母を揺り起こし、「もしわたしが死んでも、お葬式はしないでね」と、なぜかそんな変なお願いをしたのである。


20年以上も前のことだから、いくらでも記憶は捏造できる。でも、もしかしたらそれは、かたつむりを殺した日の出来事だったのかもしれない。


死や終わり、罪悪感と償いといった言葉に悩まされるようになったのは、その頃からだった。


わたしはいつも誰かに許してもらいたい。知らない土地で殺人があったというニュースを見ると、ごめんなさいと思う。物が壊れる。道端の花が枯れる。動物が轢かれる。誰かが怒る。誰かが病気になる。誰かが怪我をする。すべてが自分のせいに思えて、罪悪感に押しつぶされそうになる。しゃがみこんで、「うわーっ!」と叫びたくなる。でも、こういうことはいくら自覚しても足りないんだろう。誰だって、生きているだけで、知らないうちに誰かを傷つけるものだから。


自分が何かをすることで、大切なものを傷つけてしまうのではないかと、わたしはいつも怯えている。何かを愛そうとすることで、その何かから、大切なものを取り上げ、破壊し、最後には惨めに失ってしまうのではないかと恐れている。

誰かを好きだと思うと、離れたくなる。好きだ、よし、別れよう。どんどんどんどん離れていく。そうして、すべてが失愛恐怖へ集約していく。

わたしはいくつかの小説を書いている。主人公たちは皆、誰かの命を奪ってしまったという罪悪感を持っている。それをテーマにしようと思って書き始めるわけではないのに、知らないうちに同じパターンになっている。


かたつむりを死なせてしまったことが、それらすべての原因だとは思っていない。人間の心理は、さすがにそこまで説明可能ではないだろう。でも、かたつむりが死んだ日から、今回のわたしの人生が始まった。そう強く感じる。

あのかわいそうなかたつむりは、死んだときからわたしの人生の一部になった。それなのに、わたしにはまだ、あのかたつむりがわたしに何を教えてくれたのか、それすらわからない。

あのとき、かたつむりを自分のものにしようとしなかったら、今のわたしは間違いなく存在しないし、かたつむりも、死ななくてよかった。


頭の中で、今のわたしの人生と、かたつむりの一生を、何度も天秤にかけた。わたしの人生のほうが価値があるなんて、とても言えない。




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