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プラスチックの翼で無限の彼方へ


このところ、トイストーリーのバズのことが頭から離れなくなっていた。
特別なきっかけもないのになぜ急に思い浮かぶようになったのだろうと不思議に思っている間にも、ネットでやたらバズの写真が流れてきたり、友達からスタンプで送られてきたりと、突然あらわれるバズに怯える日々がしばらく続いたので、このさい自分から歩み寄って久しぶりに映画を鑑賞してみることにした。大したことは書けないけど、一応観た感想を書いておく。


物語の中盤まで、バズは自分のことを宇宙の平和を守るスペースレンジャーだと思い込んでいて、子供に遊ばれるおもちゃであるという自覚なんて、彼にはこれっぽっちもない。

そんなバズの姿を見ていると、自信過剰だったころの自分を嫌でも思い出す。わたしも十代の半ばくらいまではまったく意味不明な、根拠のない自信に突き動かされて行動していることばかりで、今思えば恥ずかしいことをたくさんしていたなあと思う。

でも当時はそうしているのが幸せだったし、つらいことがあったとしても不思議とすべてがあるべきところに収まっていて、自分や他人をコントロールする必要もなかったから、人生はいつも目には見えない大きな何かに委ねてあった。
まさに松任谷由実さんの歌の歌詞にある「小さい頃は神様がいて…」だった。神様におまかせの人生。挫折を知らないうちはそういうものなのかも。


だからずっとあのままでいることもバズにとっての幸せだったのかもしれないけれど、物語の途中で、バズは自分が選ばれしレンジャーなどではなく、大量生産されているありふれたおもちゃであるということを知ってしまう。目を瞑ったままでも自由に空を飛べると信じていたのに、それはただの思い込みだった。
有能感にあふれていた自己像がガラガラと崩れ落ち、完全に自分を見失ってしまうバズ。ダイアモンドユカイさんの歌う「幻の旅」が印象的に流れるあのシーンで、バズは歌詞にあるとおり、夢から覚めてすべてを知る。


全然関係ないけど、わたしも大人になるつれてだんだん眠りが浅くなってきて、作家になることを諦めたあたりで夢から覚めてしまった気がする。新人賞に応募して落ちたとか、誰かに酷評されたとか、そういうわけではないのだけれど、書いていてだんだんわかってきた。自分にはできないってことが。

自分は非凡な人間じゃない、凡人なんだ、ということを一行一行書くたびに毎日実感して、Wordを開くと耐えがたい気持ちに襲われて、作家になる夢を追いかけたこれまでの人生が間違いだった気がしてならなくなって、そういう葛藤と向き合う強さがないから叶える力もないんだ、とか、後ろ向きなことをぐるぐる考えているうちに、自分には大きすぎる夢だと思うようになった。

周りと比べて特別であることにこだわりはないけれど、小さい頃から映画や本が好きで、物語に救われて感動することが自分の生きがいになっていたから、わたしも物語を通して自分の心から人の心へ笑いや涙を届ける仕事がしたくて、だからその分野でだけはどうしても非凡な人間になりたかった。自分にしてはめずらしく野心に燃えていた。

19歳の頃夜中に映画のエンドロールをぼんやり眺めていたときに、ふと小説家になろうと決めたのが最初だったのかな。それまでは作り手になろうなんて思いもしなかったし、そもそもそんな選択肢があるということにすら気づいていなかったのに、その夜突然、小説家になりたい、じゃなくて、なろう、って当たり前のように決心した。あれはすごく不思議な感覚だったなあ。
そうかあ、自分はそういう人生なのかあ、なんて妙に納得したりして、それまでは生きていくために仕方なく消去法で将来の夢や道を選んでいたのが、やっとこの人生でやりたいと思えることが見つかった気がして、初めて自分の意思で生きていこうって思えた。


あの夜はあんなに静かな確信があったというのに、今は現実に負けて、そんな寝て見る夢みたいな夢に人生を賭けていちゃだめだって自分に言い聞かせていて、本当に人間の生活には敵わない。それはあんたが弱いだけだと言われてしまえばそれまでだけど、人間の暮らしを見ていてると真顔で「すごいな」と感心してしまうことが度々ある。多くの人が規範を守って人間として秩序正しく生活しているのを見ていると圧倒される。

だから生活感あふれる現実のこと、たとえば普通に食料品や日用品の買い出しに行ったりしても少しも現実感がなくて、自分は夢から覚めたんだ、これが現実なんだって頭ではわかっていても、ずらっと並んだ冷凍食品や半額のシールを見ながらずっと他人の夢の中にいるような感覚がしていて、そういう自分にそろそろ危機感を抱き始めてる。

買い物袋を抱えて駐車場を歩きながらふと空を見上げると、星がひとつ光ってる。その星のほうが、風のいい匂いがするあの感覚のほうが、花が咲いて救われたような気持ちになるあのときほうが、自分にとっての現実であるような気がして、自分がどの世界を生きているのかわからなくなってくる。ずっとそういう神秘性のなかにいることを誰かに許してほしいのに、目の前には人間としての生活がある。

もしもこれが映画なら、魔法のような世界で遠い夢を追い続けることを世間は許してくれるだろうけど、現実はちがうこともある。世は情けとは言っても。いつから人に許可を得て夢を見るようになったんだろう…。


でも、映画の最後にバズは空を飛ぶ。プラスチックの翼で飛んでくれる。ありふれた生産品であっても、自分でそれを知っていても、現実を受け入れて翼を広げて飛んでくれる。こういうところが映画の救いだなと思う。



「飛んでるぜ!」と叫ぶウッディに、「飛んでいるんじゃない。落ちているだけだ。かっこつけてな」と返すバズ。

本人にとっては高い所からかっこつけて落ちているだけでも、ほかの誰かにとっては悠々と空を飛んでいるように見えることもあるんだろうな。そういう生き様っていいなって、ちょっと思った。わたしが憧れた人たちも本当は同じだったのかもしれない。

私は村上春樹にはなれないし、宮崎駿監督にも中島みゆきにもレイモンド・チャンドラーにもなれないけど、誰かの傷ついた心の救いになり得る何かがもしもわたしのなかに少しでもあるなら、かっこつけて落ちてみる価値もあったりするのかな。それは自分で思っているより恥ずかしいことじゃないのかな。かっこ悪くても、勇気を出してまた書いてみようかな…なんて思ってみたり。

noteの記事を書いているときも自分の無力さにくっそ~と思いながらも、永遠に書き直し続けていても仕方がないから、いつも途中で諦めてエイっと投稿している。

でもそういえば、去年読んだ「ずっとやりたかったことを、やりなさい」という本には、こんなことが書いてあった。

「絵画は決して終わらない。それは興味深いところで止まるだけだ」とポール・ガードナーは語った。本は決して終わらない。ある時点で、あなたは書くのをやめ、次のことに移っていくだけだ。映画は完璧に終わるということはない。ある時点で、あなたはそれを手放し、終わったと言うのだ。手放す…それが普通の創造のやり方である。真の創造性に触れているとき、私たちはつねに最善を尽くしているのだ。
「自分にはできない」と言うとき、私たちはじつは、「完璧にできるという保証がないかぎり、やりたくない」と言っているのである。


完璧に終わることはないのか。そうかあ。



バズにとって自分自身は、もう銀河の平和を守るスペースレンジャーじゃない。腕から出るのはただの光であってレーザーじゃないし、翼はプラスチックで、メタリック合金じゃない。飛んでいるんじゃなくて、ずっとかっこつけて落ちていただけ。

完璧だった自己像は壊れてしまったけれど、そのぶんおもちゃであることを受け入れて、現実を知り、その自分を好きになったバズには、地に足のついた確かな強さがある。

わたしも今の自分自身や人間としての生活のしがらみを認めて手放さないかぎり、いつかは完璧な世界で完璧な小説が書けるかもしれない自分、を永遠に夢見て、迷走することになる。「小さい頃は神様がいて」というあの感覚を思い出して、もう一度大きな存在にすべてを委ねてみたい。報われるかもしれないという見込みがあるからじゃなく、もとに戻っていきたいから。


自信満々だったバズも、ショックで正気を失ったバズも愛しいけど、実力の伴った等身大の自信を手に入れたバズがやっぱり一番かっこいいし、以前よりも自然体な感じがする。
ここしばらくは色々な偶然が重なって何度も目の前に現れるからちょっと怖かったけど、やっぱりバズもウッディも可愛いなあ。

完璧じゃなくても飛んでいい、飛ぶことに意味があるって、ちょうどいいタイミングで教えてもらった気がする。わたしはまだ自分の無力さがくやしいけど、ありがとうバズ。トイストーリー2の感想もいずれ書こう。

諸々の事情があって空き時間が増えたので、もう一回長編小説にチャレンジしてみようかな。

凡人だからこそ、プラスチックの翼で無限の彼方へ、さあ行くぞー。



おわり



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