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Cadd9 #27 「冷たい指」



その日は、夕方から雨が降りだした。

直は浴室で桶に水を溜め、布団のカバーを一心に洗っていた。夜の十時を過ぎた頃だった。静かな雨音が響く浴室にいると、なにも考えなくともふいに涙が出そうになる。直はどんな気持ちも抱かないよう、ロボットのように淡々と洗濯を続けた。


このところ、裕二は酩酊するといともたやすく漏らしてしまう。そのたびに、直は汚れた服や寝具を洗う羽目になった。夜中に布団が濡れていることに気がついて目を覚まし、その不快感に腹を立てる裕二の姿は、まるで赤ん坊のようだった。起きたまま漏らすこともしょっちゅうある。そういうとき、彼は光の消えた瞳でなにもない一点をぼんやりと見つめながら、栓を抜かれた樽のように、淡々と溜まった水分を垂れ流すのだ。


脱衣所にカバーを干したあと、直は台所へ行ってなにか食べられるものがないか探した。冷蔵庫に残しておいたおかずはひとつ残らず消えている。空になった皿や箸が汚れたまま机の上に置かれていた。今朝炊いておいた白飯も食べつくされている。炊飯器は蓋が開けられたままで、からからになった米粒がたくさんこびりついていた。直はそれを集めて口に入れた。よく噛むと甘い味がする。でも、だからといって空腹が満たされるものでもない。冷蔵庫には賞味期限の切れた牛乳が少し残っていたが、飲む気にならなかった。急激に気力が失せていくのを感じ、直は床に座り込んで冷蔵庫に背中を預けた。雨粒が屋根を打ち、樋からしとしとと水が滴る音が絶え間なく聞こえていた。

父親に期待をしたり、なにかを求めたりすることを、直は次第に諦めつつあった。もしも奇跡が起きるなら、いつの間にかどこかへ行ってしまった裕二の心がここへ戻ってきて、最低限の誇りや自尊心を取り戻してくれる日がくるかもしれない。でも、それでなにが変わるというのだろう。昨日までと、一体なにがちがうのだろう。この先どんなふうに心境や状況が変化しようと、自分たち親子が今さら気を取り直し、人々と同じ明るみのなかで生きていくことができるとは、少しも思えなかった。

食器を洗おうと立ち上がったところで、台所の窓をこつこつと叩く音がした。窓の外に人影がある。上半身しか見えなかったが、一目で樹だとわかった。というより、窓を叩く音で樹だと気がついた。たとえ窓のない部屋に何日閉じ込められようと、樹がノックする音なら、直はすぐにそれとわかるような気がした。


「樹?」

直は窓を開け、小さな声でたずねた。

「よお」

樹は片手をあげ、いつもと変わらない、無垢な笑顔を浮かべる。傘をさしていたが、遮り切れなかった雨粒が肩先で光の粉のように光っていた。

「どうしたの、こんな時間に」

「いや、ちょっとお前に用があって来たんだけどさ」

樹は声をひそめ、顔を寄せながら言った。

「俺、お前の親父さんに嫌われてるだろ。ここに着いてからそれを思い出したんだよ。でも、どうしても今日渡しておきたいものがあったんだ。それでどうしようかと思ってたら、こっちで姿が見えたから。今、大丈夫か?」

「うん。父さんは上で寝てるよ」

「そうか。じゃあ丁度いいや。これ、食べて」


樹は白い、小さな箱を目の前に差し出しながらそう言った。


「これなに?」

「ケーキ。一個で悪いけど」

「でも、どうして?」

「誕生日だろ、今日。十一月十一日」

「なんで知ってるの?」

「知ってるよ。それくらい」


当たり前だろうと言うように、胸を張って樹は言った。傘のふちから滴る雨水が、台所の明かりを反射してきらきらと光りながら、樹を包むようにこぼれ落ちていく。

直は窓から両手を出して、慎重に箱を受け取った。指先がかすかに触れ合い、ふたりはそのまま動きをとめた。

「指、冷たいな」

「洗濯してたから」

「こんな時間に?」

「うん、ちょっと、色々あって」


そうか、と樹はつぶやいた。沈黙があり、樹はその間、なにか言いたげに目線を地面に落としていた。なにを言いたがっているのかはわからないが、直も樹になにか言ってほしかった。どんなことでもいいから、今ここで樹の声が聞きたかった。しかし、樹は顔をあげるとそっと指先を離し、言いかけていた言葉も飲み込んで、微笑んだ。

「誕生日おめでとう。いい年にしろよ」

「うん。ありがとう」

「じゃあまた明日、学校で」


樹は雨の中に立ち去った。夜の深い闇に包まれ、その姿はあっという間に見えなくなり、足音も耳を澄まして追いかける間もなく、雨音にかき消されてしまった。


箱を開けてみる。モンブランがひとつと、小さなフォークが入っていた。それはまるで、さっきまで見ていた夢の世界にあったものをうっかり現実に持ち帰ってしまったような、どこか非現実的な感じのするモンブランだった。

直はふたたび冷蔵庫に背中を預け、床に座ってモンブランを食べた。ケーキを食べたのはいつぶりだろう。思い出せない。思い出す記憶もないかもしれない。


直と裕二はそれぞれべつの部屋で食事をとるため、台所の机や椅子は使われることがなく、そこは古い新聞紙や広告や、酒の空き瓶などの溜まり場になっていた。

目の前に積み重なった大量のごみを見ていると、直は突然、机と椅子ごとそれらを捨ててしまいたくなった。なにもいらない。必要なものなんて、この家にはなにひとつないのだ。


一年前の今日もここにひとりで座っていたことを、直は思い出した。時間もちょうど今頃だったはずだ。その日の夜は、裕二の借金を取り立てようと、職場の上司たちがこの家までやってきたのだった。玄関先で知らない大人が怒鳴り続ける声と、両手をついて頭を下げる裕二の姿を、今でもはっきりと覚えている。直は台所に身を隠し、ここで耳をふさいで蹲っていた。直はいつもなにかに怯えていた。どこにいてもひとりだった。毎日毎日、ありったけの勇気を振り絞っていなければ生きていられないくらい、この世界が怖かった。

モンブランを食べながら、首を伸ばして玄関を見た。じっと見つめていると、今も裕二と知らない男たちの黒い姿が、そこに浮かび上がってくるような気がした。でも、そんな気がするだけだ。

そのとき、冷蔵庫が凍えるように震え、振動が背中に伝わってきた。泣いているみたいだった。大丈夫だよ、と直は心の中で冷蔵庫を励ました。

最後のひとかけらを口に運んだ。味わうほど、樹の気持ちが伝わってくる。それは受け止めきれないほど深い、あたたかな慈愛という形の優しさだった。直はそのあたたかさに身を委ね、冷蔵庫にもたれたまま、髪や肌や、壁や床に沁みこんでいくような雨音に耳を澄まし、ゆっくりと目を閉じた。


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