優しい狂気


時々、これといった物事や個人に対してじゃなく、その向こう側にある何かもっと大きなものに対して、どうしようもない怒りが湧き上がることがある。私はそういう時、ホアキン・フェニックス主演の映画「ジョーカー」を観る。それか、中村文則の小説を読む。

悪って何だろう。ネットサーフィンをしているとよく漫画の広告を見かけるけれど、最近はなぜか人間関係の泥沼や復讐劇を描いた作品が多いような気がする。人の悪意を駆り立てるようなキャッチフレーズもさりげなくついている。

人間には他人の人生の破滅を望む腹黒い一面があるのかもしれないけど、誘惑するように悪意を煽られると何となく負けてなるものかと我を張りたくなる。宣伝方法や漫画が気に入らないと言いたいわけではなくて、なぜかそこから自分との闘いが始まるというか、やっぱり悪とは何だろうとぐるぐる考えて始めてしまう。

たとえば、人の罪を裁くことに罪はないのだろうか?
誰もが大なり小なり互いの罪を裁き合って生きている。ジョーカーが間違った存在であると言うのなら、彼を生み出した世間そのものや、大勢で彼を笑いものにすることで異端者として裁こうとした側の人間を、正しいと言えるのだろうか。

ジョーカーは自分で決めればいいと言った。何が善で何が悪なのか、笑えるか、笑えないか、自分で決めればいいと言った。

殺人という行為を正しいとはさすがに思わないけれど、自分の戦いのために立ち上がり、神風特攻隊のような勢いでゴッサムシティと向き合ったジョーカーは、同じ虐げられてきた側の人間からすればたしかにヒーローとして祭り上げられるべき存在なんだろうな。

ジョーカーは復讐のために生まれた存在ではないかもしれないけれど、アーサーはジョーカーになることであらゆる葛藤を振り切り、ゴッサムシティや、自分から見える世界だけが美しければそれでいいとでも言うような富裕層や強者に対して、報いを受けさせようと動き出した。


コメディアンとして人を笑わせ拍手喝采を浴びることが夢だったアーサーは、積もりに積もった不満や悲しみが怒りに変わり暴徒と化す人々の中心で、ジョーカーとして崇められ、大きな復讐劇の立役者となる。
それはアーサーが望んでいた夢への道筋とは全く違うものなのだろうけれど、結果的に彼の願いは叶ったと言える。


映画を観ながら私は中村文則の小説のことを思っていた。
「銃」「遮光」「悪意の手記」「掏摸」「土の中の子供」「何もかも憂鬱な夜に」など、彼の作品には、悪意や弱さや葛藤の向こう側にある、あるひとつの到達点と、その克服を目指す主人公の姿を描いた作品が多い気がする。たとえば芥川賞を受賞した「土の中の子供」の中には、こんな会話がある。


「わからないんだよ。ただ……、優しいような気がしたんだ。これ以上ないほど、やられちゃえばさ、それ以上何もされることはないだろう? 世界は、その時には優しいんだ。驚くくらいに」

「何言ってるのよ。意味がわからないよ。それに、それって、死ぬってことじゃない。死んでどうするのよ」

「似てるけど、違うよ。違うような気がする。それと……ぶつかっていく間、すごく自分に自分が合わさっていくような気がして、止まらなかった」


アーサーもきっと、ジョーカーに生まれ変わる時、「自分が自分に合わさっていくような気がした」のではないかと私は思う。

それから、同じ作品にこんな場面もあった。

「あの時、私は犬に向かって叫んだのではなかった。犬の向こう側にあるもの、私を痛めつけた彼らの、さらに向こう側にあるもの、この世界の、目に見えない暗闇の奥に確かに存在する、暴力的に人間や生物を支配しようとする運命というものに対して、そして、力のないものに対し、圧倒的な力を行使しようとする、全ての存在に対して、私は叫んでいた」



初めて読んだ時、私が時々怒りを覚える「その向こう側にあるもの」というのは、たしかにこの世界の運命、に近いものであるのかもしれないと、何となく救われたような気がした。


普通の人からすれば、アーサーはただの気がふれてしまったあわれな人でしかない。それでも狂人として生きることを選んだ時に、彼は「その向こう側にあるもっと大きな何か」から解放され、やっと楽になったんじゃないだろうか。

その境地へ行けるのか行けないのか、その狂気にふさわしい人間なのか、それを試される人間はあらゆる作品の中で描かれる。そしてきっとその多くが人間として落ちて落ちて落ちきった先にある出口を求め、ある意味で優しく温かい、同じひとつの世界に辿り着くことを望んでいた。

たとえ周りから見てどれだけ気味が悪くとも、その狂気の世界は彼らにとっては優しさに包まれた安全な居場所なのだろう。

何となくそうだとわかる。だから私ももし気がふれてしまったとしても、頼むからもうそっとしておいてくれと、その時は世間に対して願うのだと思う。

印象的なアーサーの台詞、「理解できないさ」
そうつぶやいたあとに歌いながらゆっくりと目を閉じて煙草を吸うあのシーンを見ていると、そういう出口もあるんだなと、どこかほっとしたような気持ちにもなる。



後々感想を書いていこうと思っているけれど、私は中村文則の作品のほかにも映画の「her」「バニラスカイ」「スイスアーミーマン」「ムーンライト」など、人間のどうしようもない弱さ、醜さ、気持ち悪さ、腹黒い情念などを包み隠さず見せてくれる作品がとても好きで、触れているととても優しい気持ちになれるし、安心する。

人間の醜い一面を見ても嫌な気持ちにならずに物語に感涙することができるのは、作り手は「ね、人間って汚いよね」ということだけを言いたいのではなくて、そういう人間の弱さや醜さに対しての、愛情や憐れみの想いを語ろうとしているのだということが、なんとなく伝わってくるから。

だからどんなにもの悲しい終わり方だっとしても、主人公なりの救いがそこにあるなら、私にとってそれはすごく優しい物語なんだよね。


たまに人間のどす黒さを様々な方法で「どうだ、人間って汚いだろう、醜いだろう、気持ち悪いだろう」とそこに陶酔するようにひとつの美学として描きだしている映画や小説とも出会うことがある。
良い・悪いのジャッジではなくこれは単純に私の好みの話なのだけれど、私の場合はそういうものに触れたあとはただただ胸糞悪くなって終わりなので、ちょっとだけ苦手。でもその良さはわかる。ちょっと苦手だけど。


余談になるけれど、友達と映画の感想について語り合っている時、「私がジョーカーになったとしてもあなたには何もしないからね」というようなことを言ったら、その友達は「私は静馬がジョーカーになって好きに楽しくするなら何でもいいよ」と言ってくれて、こう思うのは変だけど、なんだかすごく嬉しかった。


なんにせよ気がふれてしまった人の笑顔には悲しみがあるね。この世の底蓋のところまで行って、そこで何かを見たんだろうね。

私は悲しみが怒りに変わらぬよう祈っている。
私は凡人で、狂気にふさわしい人間ではないから。

だから時に恐ろしい企みがふと心に浮かんでくることがあったとしても、気が狂ってもそんなことはしないと自分に誓うことしかできない。

人が理解し合うことの途方もなさに倒れそうになったり、気がふれてしまったほうがましなんじゃないかと思うこともあるけど、たぶんこの先もそうはならない。でも多くの人がそうであるように、人間の醜さ、そしてその弱さへの愛しみも、悲しみも知っている。

理解できないさと言いたくなる時も、互いに同じ痛みがあることを知りたいと思う時もあって、こういう気持ちを分かち合える人がきっといるはずだということも、まだ信じていられる。


優しい狂気の世界には私は辿り着けなかったけど、フランク・シナトラが歌ったように、これが人生、くじけたりしない。

運命に負けないように両手を広げて歌ってみよう。これが人生。




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