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Cadd9 #6 「すべての人間の代理として」


次に樹に会ったのは、学校の帰り道だった。

一週間のうち、水曜日は直にとって最も気が重い日だった。近隣の中学校の部活動が休みになるため、同級生の兄姉やその友人たちが普段より早く学校を終え、そのうちの数人が取り巻きを連れて帰宅途中の道をうろついているのだ。直は彼らのいい笑いものになっていた。

彼らは日常的に教師に手をあげ、学校の窓を破壊したり、他校の生徒たちとの喧嘩をくりかえしたりしているようだったが、直のような非弱な小学生を相手に本気になって暴力を振るったり、何かを強要するようなことはしなかった。直はただ、いつも軽く小突かれて笑われるだけだった。彼らにとってそれは、変わったものを見ておもしろくなったからつい笑うというただの反応なのであって、特別な意味などなかった。直自身もそのことはいやというほどわかっていた。だからこそ直は彼らに囲まれてもいつもすまし顔を浮かべてやり過ごすようにしていた。しかしいくつもの悪意に満ちた歪んだ笑顔に囲まれて、平気でいられたことなど一度もなかった。


その日、直は最後の授業を終えるなり急いで学校を飛び出し、小走りで家路をたどった。

学校から家までは徒歩で三十分以上かかる。その道中にはいろいろな建物があった。寺、保育園、郵便局、交番、鮮魚店、家具屋、市民病院、薬局、コンビニ、図書館、理容室。ひとつ道をそれるとたばこ店やスナックが立ち並ぶ駅通りがある。裕二にたばこを買っておくよう頼まれていたため、直は駅通りを通って帰ることにした。


いつものたばこ店でキャスターを五箱買い、手提げの中に隠した。二階建てのスナックの前を通り過ぎようとしたとき、直はふと向かいの書店に目をやった。それは小さな白い建物で、壁は所々が黄ばんでいた。普段なら気に留めないのだが、直は歩きながら何気なく中の様子に目をやった。狭い店内に無理やり本棚が並べられ、そこにびっしりと本が詰め込まれてあった。通路は狭く、床も天井も汚かった。そこに樹の姿を見つけた。



樹は本棚の前に背筋をぴんと伸ばして立ち、分厚い本を広げていた。顔は見えなかったが、その背中からすぐに樹だとわかった。直はほとんど無意識に店の扉を開けた。壊れた機械のような、ひずんだ音のチャイムが鳴る。樹はふり返り、直を見て、すぐに本へ興味を戻した。

「何を読んでるの?」

そばへ寄って話しかけると、樹はぱたんと音を立てて本を閉じた。

「何でもない。つまんない本だよ」

樹は本を戻し、反対側の本棚を物色しはじめた。

学生服を着た樹は以前会ったときよりいくぶん幼く、真面目そうに見えた。そして、どことなく窮屈そうな感じがした。樹は新たに分厚い本を手にとり、むずかしい顔でそれを読んだ。しばらくすると、その本は棚に戻さずに脇にかかえて、児童書があるコーナーへ移動していった。直はそれについていった。

樹は目をきょろきょろと動かし、数ある児童書の中から「ルドルフとイッパイアッテナ」と「銀のくじゃく」という本を見つけると、すぐさま手にとり、中身は読まずにレジへと向かった。満足した様子で樹は合計三冊の勘定を払い、ふたりは書店を出た。


「直は、読書は好き?」

歩きながら、樹はきいた。直は横に並んで歩いた。


「あんまり読まないからわからない。でも前に、キリストの本を読んだことがあるよ」

「キリスト?」

「学校の図書室に、コロンブスやベーブ・ルースの伝記と一緒に、イエス・キリストの本が並んでたんだ。ちょっとびっくりした。それで読んだ」

「何でびっくりしたんだ?」

「だって、コロンブスとか、ベーブ・ルースとか、本当にいた人の、本当にあったことが書いてある本と同じところに並んでたから」

「でも、イエスだって本当にいたんじゃないかな。俺も前に聖書を読んだことがあるよ。奇跡が事実かどうかはわからないけど、少なくとも物語としては興味深かったな」

直は聖書を読んだことがなかった。あんなに分厚い本を、読みたいと思ったこともない。


その図書室の本は面白かったかと樹にきかれ、内容をあまり覚えていない直は返事に困った。最後まで読んだかどうかも定かじゃない。


「面白いとは、感じなかったと思う。はっきり覚えてないんだ。でもその本の中に、挿絵があったのは覚えてる。茨の冠をかぶせられて、鞭で打たれて血を流してるイエスの絵だった」

その絵はクリーム色の紙に黒いインクで印刷されてあった。万年筆で描かれたような、所々に液溜まりのある絵だ。直はそれをなるべく詳細に思い出しながら話した。

「イエスの後ろに立っている男は、膝を曲げて、腕を高く上げて鞭を振りかざしながら、笑ってるんだ。目を細めて、口を開いて、楽しんでるみたいに。その鞭には鉄や硝子の破片が埋めてあって、肉を深く切り裂くんだってその本には書いてあった。でもイエスは血を流しながら、手を合わせて祈ってるんだ。その男の罪を許してくれるように、神様に祈ってるんだよ」


 ああ、と樹は相槌を打った。


「イエスはすべての人間の罪を背負いたかったんだよ。その男の罪もね」

「でも、何のために?」

「すべての人間の代理として、罰を受けるために。読んだならわかるだろ?」

「むずかしくてよくわからなかったんだよ。それに、そこから先の話は覚えてないんだ。そこで読むのをやめたのかもしれない」

そうか、と樹は少し残念そうに言った。


そのとき、直は道の先に同じクラスの勝部という名の生徒の兄がいるのを見つけた。周りには取り巻きの学生が五人いて、彼らは道に面したゲームセンターでアーケードゲームを取り囲み、歩道にはみ出して大きな笑い声をあげていた。樹は気にする素振りもなく歩き続けた。


「教会に行ったことある?」

と、樹はきいた。

「ない」

「俺は何度か行ったことがあるよ」

「そう」

「クリスチャンじゃないけど、時々なんとなく行きたくなるんだ。教会の人にどう思われてるのかはわからないけどさ。この街にある。今度連れていってやるよ」

「うん」

直は気もそぞろに生返事をくりかえしていた。いつものように靴が汚いことや目が泳ぐことを彼らに笑われるところを樹に見られたくなかった。しかし樹は構うことなくどんどん歩いていく。直が立ち止まると、樹も足を止めた。

「どうした?」樹がきいたとき、ちょうど勝部の兄がこちらを向いて、嬉しそうに手をあげた。

「月森」

てっきり自分の名前を呼ばれると思っていた直は、勝部の兄と樹の顔を何度も交互に見た。「勝部さん」と樹は言った。第二中学校に通っていると樹が話していたことを、直はそのときようやく思い出した。


「ちょうどよかった。さっきお前の話してたんだよ。なあ、月森さ、この前のことなんだけど」

勝部の兄は樹に近づいて肩に手をまわし、耳元に口を寄せた。直は離れたところからそれを見ていた。耳元に口を寄せているわりに、勝部の兄の声量は普通に話す時とまったく同じだった。


「なあ月森、正直に言えよ。ミナミちゃんとは、あのあとどうなったわけ」

「べつになにもないですよ」

「嘘だあ」

「本当に」

「隠さないで教えろよ。ああ、いいなあ。可愛いよなあ。ミナミちゃん」


勝部の兄は三年生で、年のわりに大きな体をしていた。制服は自前の短ランとボンタンを着ていて、髪型はなぜか襟足だけがものすごく長かった。周りの学生たちも同じような格好をしていたが、勝部の兄のボンタンはその中でも取り分け大きくふくらんでいたし、襟足の長さもずば抜けていた。そして彼らはみな、何かを欲しがるようにして樹を取り囲んでいた。



「あれ、相場じゃん。なんで月森といるんだよ。知り合いか?」

取り巻きのひとりが言うと、中途半端な笑顔がいくつもこちらをふり向いた。直はすぐに地面へ目をそらした。

「本当だ。気づかなかった」

「いつもそうだよ。なんかこいつ、気がつくとそこにいたり、知らないうちにいなくなったりしてるんだよな。月森、こいつと知り合いだったのか?」

知り合いというか、と樹が言いかけたのをさえぎって、勝部の兄が口を開いた。

「こいつさあ、なんか変だよな。本当はおかしいのに、無理して普通のことしようとしてるっていうかさ。弟から聞いてるぜ。こいつ、服を着替える時とか、体を隠すんだって。女みたいに。あと、いつも横目でじっと見てるの。周りのやつらのこと。そうかと思えば、急に何もないところ見て動かなくなるし。変なんだよ。何言っても本気で怒りも泣きもしないし、俺、こいつ見てると不気味で仕方がないんだよ。なあ、お前らもそう思うだろ?」

全員が濡れた歯をむき出しにしてにやにやと笑った。樹は勝部の兄に肩を抱かれたまま、直が普段置かれている状況を今まさに把握しつつある様子で立っていた。直は耐えがたい羞恥心におそわれ、顔と耳が熱くなるのを感じた。一緒にいたことで樹にまで恥をかかせてしまったのではないかと思うと、罪悪感で心臓が激しく痛みだした。その間にも彼らは普段の直の様子を真似て、目と口をぽかんと開けて空を見上げたり、内股で歩いてみたり、横目でじろじろと周りを見たりして笑い続けていた。

「直」

樹が名前を呼んだ。直は今すぐここに穴を掘って自分を埋めてしまいたいと思いながら地面をにらんでいた。顔をあげられない。


「そういえばお前さ、この前家に遊びにきたとき、忘れ物しただろ。今から取りにこないか?」


樹はそう言ったが、あの日は手ぶらで行ったのだから忘れ物などしているはずがなかった。消しゴム以外に樹やナスノさんから何かをもらったわけでもない。
直は樹の考えていることがわかるような気がした。顔をあげて樹と目を合わせ、涙を堪えながら、うん、と直はうなずいた。



樹は猫のようにするりと勝部の兄の腕をすり抜けると、それじゃあ、と彼らに短く別れを言った。

「行こうぜ」

ごく自然で、さっぱりとした明るい声で樹は言った。


勝部の兄たちがじろじろと見るなか、直は俯きながら樹のそばに駆け寄った。

ふたりで並んで歩き出すと、後ろから、「つまんねえ」と、勝部の兄が本当につまらなさそうに言うのが聞こえた。






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