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「我慢」にエネルギーを注ぎ続けていた

歩くようになって、気付いたことがある。

歩くのって、本当に気持ちが良くて。

「歩くのってすごくいいんだよ。
どれだけ踏みしめても、きちんと押し返してくれるよ」
って、
お世話になっている方が言ってくれていたのだけど、
身体の感覚として、頭の理解として、ようやく追いついて腑に落ちてきた。

言葉にすると、当たり前のように聞こえるというか、、、
そりゃ地面がぐにゃぐにゃで押し返してくれなかったら、
歩きにくいし困るのだけど。

普段の私の生活は、特に対人関係では、
押してみても上手く力が伝わらなかったり、
思わぬところから力が返ってきたり。
その力も予想より強かったり、弱かったり、
尖っていたり、分かりにくかったり。

適切な力が分からなくて疲れてしまったり、我慢しすぎてしまったり、と
「きちんと押し返してもらう」ことは少なかったり、
きちんと押し返してもらう前に諦めてしまったりと、
「押した分、まっすぐに返ってくること」って少ないんだな、と思う。

そして、わたしもいつの間にか、
「今の自分の力を使って、感じて、全身で押すこと」
やめてしまっていた。

適当に、当たり障りなく、ぬるっと、なんとなく、歩いていた。

「きちんと押すこと、押し返してもらうこと」は、
とても気持ちが良いことなのに。


そして、同じような「なんとなく」を、
日常のそこかしこでもやってしまっていた。

「なんとなく」力を抑えて、「なんとなく」相手に合わせて、
「なんとなく」普通っぽく、「なんとなく」当たり障りなく。

それは、未来のないただの行為で、何にも繋がっていなかった。
いや、過去の「父」に繋がっていた。

とにかく「我慢」が美徳で、相手(父)の意向に合わせることが重要で、
父の常識・普通がルールで。

その常識やルールは、一般社会とかけ離れているものも多かったのだけど、
家の中では「絶対」だった。
よく破ってしまう母は、それは酷く怒鳴られ、感情をぶつけられていた。

「我慢」すれば、怒鳴られることはない。時には褒められる。
怒鳴られなければ、平穏に過ごせる。

私という人間は、とっく大人になり、自立し、お金を稼ぐことも、
生活することもできるのに、そして、自分で自分の将来を
切り開いていけるにも関わらず、子供のときのまま、
未来に繋がらない「我慢」を選択するのがデフォルト
で居続けた。

歩くときもそうだった。全力で地面を押すなんてこと、してなかった。
気付いて身の回りを見回すと、「我慢の欠片」が沢山あった。

父は全てを我慢できるほどではなかったので、
わたしの我慢も結構ゆるめではあるのだが、
「とっても満足」ではないけど、なんとなくよしとしているもの、や
「ちょっと我慢」すれば使えないことはないもの、だったり
「しっくりくるわけではない」けど、そこまで気にならない、とか。

そういうことが身の回りにたくさん、たくさんある。

食事もそうだった。
一番食事について、「あ、おかしかったわ」と思ったのは、
生活全般に「我慢」が散らばっているから、
「我慢する」ためのエネルギーを取るために食べていることだった。

本当は、「やりたいことをやるため」「前に進むため」に
エネルギーを取り、それを使って取り組む
のが普通なのに、
わたしは「我慢をする」ことがデフォルトで、
我慢するために食べていたものだから、
食事も「何となく物足りない味付け」だったり
我慢にはエネルギーが要るから食べ過ぎたり、
我慢していることに気付かないように「太めの身体を維持」したり、
我慢させるために内臓を使うから、胃が痛くなったり、
胃腸炎や便秘にもなりやすかったり。

本当に、身体を虐めてたんだと思う。
いや、、、もったいな過ぎる、、、!!!!!

馬鹿なことしてる場合じゃない。
「やりたいことをやるため」「前に進むため」にエネルギーを使わないと。

そして、「我慢」と「辛抱」は別物だから。
親を手本にして「我慢」するのは終わりにして、
私が私のエネルギーを上手く循環できるような未来に向かって
「辛抱」にエネルギーを切り替えて、引き続きダイエット、頑張ります。

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