泣きっ面に蜂
「泣きっ面に蜂」という言葉が割に好きだ。何となく響きがいい。けれど、理由はそれだけではない。
そもそもこの言葉は決して良い意味を持たない。
「泣きっ面に蜂」とは、
泣いているときに顔を蜂に刺されて、いっそう辛い思いをする。悪いことが重なること、不幸な上にさらに辛いことが加わることのたとえ。
である。(コトバンクより引用)
悪いことが重なるということであるなら、全く持って良い意味ではないだろう。
しかし、泣いているときに顔面を刺され、その後彼がどうなったか知る者はいない。
顔が腫れて友人にいじめられたかもしれないし、蜂といっても可愛らしいミツバチではなく目の釣り上がったオオスズメバチで、病院に救急搬送されたかもしれない。
この後起こりうることも、私たちは無意識に「悪い事」が待っているのだと勝手に想像してしまう。だがこれは半分合っていて半分間違っている。
先程の例を用いて、顔面を刺したのがオオスズメバチであり、泣きっ面に蜂の彼は救急搬送されることになったとしよう。
その後救急搬送先でお見舞いに来てくれた女性が、脈アリだと気付き、その女性と永遠に結ばれることになるかもしれないし、蜂に刺されることなく出勤していたら事故死していたかもしれない。
人生とはある種運命の連続であり、我々は結局その事実を常に受け入れるしかない。
だから泣きっ面に蜂であったとしても、それをよりポジティブに変換した方が楽しく思えたりするものだ。
また、「泣きっ面に蜂からの石に躓いて転ける」的なことわざがないように、悪いことが重なっても、これ以上悪いことは起きないとの暗示のような気さえする。
だから泣きっ面に蜂の状態は既にどん底であり、落ちるところまで落ちて、これ以上落ちることはないのである。もっと言い換えるなら、おみくじの大凶と同じで、運勢的な何かはもう上がる一方なのだ。
だとすれば、大凶とか、泣きっ面に蜂とか、一見縁起が悪そうであまり良い意味を持たないような言葉やものにだって自然と好感が湧くのだ。
あなたの好きな言葉は何ですか。
きっと「泣きっ面に蜂」が好きとか言う人間は世界中のどこを探しても僕くらいなんじゃないかな。
でも、僕は蜂を見るとそれがミツバチであっても怯えて早々と逃げ足になります。ことわざの蜂は好きでも、生物的な蜂は好きではないなんて言ったら、蜂もおそらく複雑な思いになって、いささか可哀想であるが。まあ蜂には同情することにしておこう。
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