蜘蛛の糸にしがみついて
困ったことに、わたくし貧弱である。よく周りの人間からは「スタイルがいいね」と言われるが、裏を返せば頼りない体型ということだ。
自称「BMIならBTS」を名乗れるこの頼りない体型。つまり「痩せ」こそ「美」みたいな社会的風潮のおかげでポジティブに変換することができるが、これが百年前とかだったらまた感じ取られ方は変わったことだろう。いかんせんネガティブイメージが強すぎることになりそうである。僕の体型については、筋トレをすればいいじゃないかと言われればそこまでだが、現状筋トレをするつもりはないし、きっとこれからもそうだ(筋トレは三日坊主で続いた試しがない)。
この痩せ体型は今だけかと言われればまったくそうではなくて、僕が物心ついたときから——とは言わないまでも、小学生の頃からそのような体つきであったと記憶している。
小学校高学年くらいだっただろうか。ある日、体育の授業で「のぼり棒」をどれだけ早く登れるか的な授業をさせられた。校庭の奥にある、酸化して茶色っぽく錆びついた金属の棒を握る。手にひやひやとした冷たさを感じて登らされるのである。
「登らされる」といっても、まったく上へ上へと登ることができなくて、地上40センチくらいで歯を食いしばってしがみついているだけである。
のぼり棒自体が児童30人に対して5本くらいしかなかったから、順番を待っている友だちからの冷たい視線を感じる。「男の子なのに」。そんな植え付けられた意識があるものだから、余計に力が入って額から汗が吹き出た。視線が集まった背中が一瞬ぼーっと熱くなって、すぐに冷たくなる。上へ上へと登っているつもりなのに一向に進まない。結局、全く登れず1分交代のルールに則って僕は錆びた冷たい棒から手を離した。僕の頭は白く、熱くなっていた。長い長い1分間だった。
「できなければできるようになるまで練習をすればいい」
そうやって子どもは育っていくのだが、僕はのび太君みたいに問題から目を背けた。苦手なものはやらない。とは言うものの、当時の僕に青狸の友達はいないし(ド:「タヌキじゃないヨー!」)、黄色い服はおろか、丸眼鏡もかけていない。半袖短パンの体操服を着た、裸眼の痩せた少年だった。逃げに逃げた結果、僕はこの時から今日に至るまでのぼり棒に触れさえしていない。つまり、「貧弱」な人生を選択したのである。
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いつだかは忘れたけれど、のぼり棒を登れなかった少年はこの後芥川龍之介と出会うことになるのだ。『蜘蛛の糸』。その少年が初めて手に取った彼の作品である。あらすじをここで引用すると、
というものである。きっと誰しも一度は見聞きしたことがあるだろう。
その本は小学校の図書室に、ぽつんと。宇宙について特集しているコーナーの一角に紛れていた。誰だよ。元にあった場所に戻せよ、と思って手に取ったその本を何気なく開く。なぜか気づいたら図書委員会の児童に渡し、借りる手続きを行っていた。僕は放課後、家へ帰ると珍しく勉強机に向かって淡々とページをめくり続けた。
食い入るようにして読んだ。普段読み慣れない活字を、国語のテストくらいしか一生懸命に読めない活字を、そのときは目でなぞるだけで理解できた。
大方、この話を初めて読めば「悪いことをすれば自分に返ってくる」とか、「自分だけの利益を考えてはいけない」といった教訓を感じることができるが、僕はそうではなかった。
まず、蜘蛛の糸を器用に登る主人公の犍陀多を尊敬した。単純に彼の腕力は羨ましいものだと思ったし、後に続く地獄の罪人たちのパワーも凄まじいものだと関心を抱いたものである。いやはや、地獄にいる人たちはマッチョだけなのかとも思った次第。
そう考えたとき、一つの教訓を得た。
もし僕が地獄に落とされ蜘蛛の糸が天から垂れてきたとしても、もう希望はない。のぼり棒も登れぬ細い腕では無理だろう。そうであるならば、答えはひとつしかない。ストレートで天国へ行こう。地獄へ落ちたら這い上がる筋力もないのだから。
芥川龍之介も予想だにしない教訓を得た僕は、今日まで善に生きてきたつもりです。もちろん、これからだって。
まあ要するに何が言いたいかって、善に生きれば筋トレなんか必要ないということですね(曲論)。
「押すなよ!理論」に則って、ここでは「サポートするな!」と記述します。履き違えないでくださいね!!!!