言葉を書くということはひとりになるということ

 言葉を書くたびに私は孤独になっていきます。孤立していきます。

 人の言葉を読むと、みんな生きているように見えます。そうして私だけが生きていないような気がしてきます。馬鹿みたいと思われるかもしれませんが、中二かよと嗤われてしまうかもしれませんが、この実感からは逃れられないです。

 私にできることは何もないので、生活さえろくにできないので、唯一できることである言葉を書いて日々ひっそりと呼吸しています。でもできるなんて言ってみたところで、結局聞いたり話したりできるからその延長で書いてみて、それで書くことができると言っているだけのことです。実際にできているのか私には分かりません。たぶんできていません。

 思ったことを書いてみる。書いてみると人とはどうも違うらしいことが分かってくる。ただ違うだけじゃない。どうやらおかしいと言われる方向で違うらしい。私の言葉はどうにも共感には縁遠く、また理解からも程遠いらしい。人間として、私はなんだか駄目らしい。行動も、考え方も。

 言葉をゆっくり積み重ねてみる。そうやって積んでいけばいくほど、人の言葉がよく分からなくなってきます。自分の言葉もそれと共に崩れ、戻そう積み直そうとすればするほど乱雑としてきて、次第に足の踏み場がなくなっていく。どこをどういけばいいのか分からなくなります。ひょいと跨げば言葉が足の裏に刺さる。片付けていこうとすればするほど言葉はどんどん増えていく。そうしてどこに手をつけたらいいのか分からなくなってくる。座り込めばすねや膝にも刺さります。手を動かせば指先や手のひら、腕が切れます。お尻も痛い。もう動けなくなります。

 言語化しようとすればするほど、私は私というものが分からなくなっていきます。乱れていく。それと同時に誰の言葉にも縋れない自分を発見する。じゃあやっぱりと書いてみたところで、言葉を綴れば綴るほど私は私を整理するどころか散らかしてしまうわけですからどうにもならない。私の言葉は私にしか読めないものにどんどんなっていってしまう。こうなるとますます理解されない。共感できないと言われる。言葉を書くことは孤立することであると最近はっきり思うようになってきました。私だけなのかもしれませんけど。

 言葉にすれば理解し合える。居場所のようなものができる。小さくても共感がそっと芽吹いて、それは道を行くときに見かけるような、名もなき緑のやわらかさに似ている。なんてことを書き始めたころは思っていました。でも。そんなことはなかったです。私の言葉はどこへも行けず、たまにふと目と出会えば、意味が分からないと嗤われる。怒鳴られる。悲しまれる。言葉を重ねても重ねても、怒声と笑声は、悲声は小さくなりません。言葉を声にしても同じことで、私の友人といえば無視と無言と、あとはさっき述べたものたちだけです。

 お前は狂っていると言われたことがあります。クズだと言われたこともあります。きっとそうなんだと思います。私は人の言葉が分かりませんけど、でも日々ゆっくりと孤立していく自分を見て、咲いては大きくなっていく枯れることのない孤独を見て、そういった言葉だけは分かるような気がしています。

 私は私のために言葉を書いていました。でもその言葉たちは私のためになりません。私を孤立させ、孤独にしていくだけのものです。言葉を書けば救われる。気持ちが楽になる。言葉は自分を助けてくれる。助けたかったんですね。言葉は自分を生かしてくれると思っていました。そんなことはありませんでした。私の言葉という手は、痛みという水を吐くほど飲ませてくる。気持ちは日毎重たくなり、気付けば人ではないものばかり見るようになってしまいました。空や川や土や雑草、月や鳥や虫、夏とか冬とか、夜とかもそうです。そうして私はそこに人格を与えたり、あるいは言葉でしかつくりえないものを拵えようとし始めています。生はなくなりました。

 生きることのできない私は、生から弾き出された私は、自分の言葉という手に引かれて死へと近付いていきます。私はこの先も自分の言葉に連れられていくでしょう。孤立が私たちを微笑みながら歓迎してくれる、孤独が腕を広げながら迎えてくれる。言葉を書くということはひとりになるということです。周りにある生から剥落し死んでいくことです。私にとっては、どうやらそういうことのようでした。

                               (了)

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