男らしく女らしく、人間らしく自分らしく、あなたらしく
男らしく、女らしく。そういった言葉が枯れて、色が暗くなっていく隣で、引っこ抜かれていくそばで、こんな言葉が花を咲かせています。日を浴びて、与えられた水を弾いて、きらきら瞬いているんです。
人間らしく、自分らしく、あなたらしく。
でも、その色も葉の形も、脇で朽ちている花唇のそれと同じだって、私は思うんです。
男らしく、女らしくの花言葉でパッと思いつくのは、抑圧、制限、規範、重圧、規定でしょうか。ほかにもあるかもしれません。でも、人間らしくとか自分らしくとかいう植物もまた、まったく同じ花言葉を持っています。
そうでしょう? 私は気づけば女でした。女として息をしていました。女という生地であったがゆえに、たくさんの色を吸わされました。でも同時に、人間でもあったわけです。気づいたら人間だったわけです。そんな存在である私に、女らしくと言って色を染み込ませることと、人間らしくと言って色を染み込ませることと、いったい何が違うんですか。
あなたらしくだって同じです。私は私として存在することを望んだわけではありません。ただ意識したときにはもう、この輪郭でいたというだけのことです。だから、あなたらしく生きようなんて言われても、それは私にとって、女らしく生きようと言われているのと変わりません。
自分らしさは決められる、選べるじゃないかと言われたことがあります。でも本当ですか。じゃあ私が、ダンゴムシとか蛾とかを捕まえて口に放り込んで噛み殺すのが自分らしいと決断して実行したら、あなたらしいと言って承認してくれますか。しないでしょう。すぐには頷けなかったのがその証拠です。私の言葉を聞いて胸がざらっとしたのがその証です。自分らしさなんてものは、最初から制限されています。決めることなどできません。選択肢のなかから決めさせられただけのことです。選んだ気にさせられているだけのことです。それに自分というものは、文化や言葉の、教育の、社会の、他人のにおいで色づけされています。自分なんてものがあるって、どうして言い切れるでしょう。自分は何かの、複数の何かの象徴、写しでしかないかもしれない。何かに対する違和感が自身のものだって、私は胸を張れません。
百歩譲って、決められるとして。だったら男らしさとかだって、内容を変えてしまえばそれで終わることではありませんか。自分で決めた男らしさ女らしさのなかで生きればいい。わざわざ自分らしくなんていう概念を拵える必要もありません。
同じ花なのに、植物なのに、どうして違うなんて嘘を吐くんですか。なんで片方をほめちぎって、もう片方を踏んだり引きちぎったりするんですか。形も色も変わりません。男らしく女らしくを否定しながら、なにゆえ人間らしくとかあなたらしくとかを否定しないんですか。どれも同じです。気づけば持たされていたものであるよう、強いているんですから。
結局、自分で考えていないからではありませんか。ただ周りの社会の、時代の拡声器として、音をどぎつく響かせているだけになっているんじゃありませんか。
私には理解できません。人間らしくとか、自分らしくとかあなたらしくとかいう言葉が、こんなにもほめそやされていることが。
(了)
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