「なんで母の日に何もしないの?」

「なんで母の日に何もしないの?」

 そんなニュアンスの言葉に、これまで何度か触れてきました。そのたびに思うのは、祝うことが、感謝することが、どういうわけか義務になっているということです。

 お花とかお食事とかお手紙とか、別に何でもいいけれど、とにかくそういったものを通して謝意を伝えなければならない。そういう日になってしまっています。

 でも感謝は義務じゃありません。子は母親に感謝すべきだ、みたいな義務感から生じた感謝など、そもそも感謝ではないんです。そんなものは建前と取り繕い、要するに欺瞞に過ぎません。自らの評判なり何なりを維持するための。人の目を気にしているだけのことです。あるいはただの固定観念です。子は親に感謝するものであるという。

 感謝とは、ふっと湧いてくるものです。口からぽつりとこぼれていくものなんです。だから、湧いてこないならそれでいいはずです。なのに、感謝を謝意をの大号令。

 お母さんに気持ちを伝えなよと人は言いますが、じゃあ母を憎んでいる人は、その思いの限りをぶちまけてもいいんですか。一部の感情の伝達しか人は取り上げませんが、母親を、親を恨んでいる人や嫌悪している人、言葉にできない想いで苦しんでいる人は、それを何らかの形で親にぶつけていいんですか。どうしてありがとう以外を伝えてはいけないんですか。

 母親だって人間です。ですから当然、様々な母親というものがいるはずです。虐待やネグレクトをしている母親もいれば、いわゆる母なる概念にぴったり当てはまるような、そんな母親も存在し得るでしょう。母親に感謝を、という旗が掲げられたとき、その布に描かれている母親には、理想という原色の絵の具が使われています。だからおかしなことになる。感謝できない自分は変だと、だめだとおかしいと、そう感じて余計に苦しむ存在が生まれてしまうんです。個々人の背景は、すっかり塗りつぶされてしまっています。

 感謝の気持ちなど、伝えたい人が伝えたいときに伝えればいいだけのことではないんですか。あるいは、こういう日でもなければ小っ恥ずかしくてできない人が。母の日にはプレゼントを送るのが普通だとか、当たり前だとか、人間として当然だとか、そういった正しさみたいな、徳みたいなものを添えるから、すべてが嘘臭くなって、ただの経済的なイベントにさえ見えてくる。自分は謝意を伝えられるいい人間です、みたいな汚臭すら、行為から漂うようになってくる。形骸化して、形式だけになった感謝さえ、見かけるようになりました。

 したくないからしないと言うと、軽薄な人間のように、温かい血が通っていないように思われますが、母の日で想定されている母子など、およそフィクションではありませんか。子が母親好きだということが、なぜだか前提になっている。母の苦労を想い、いたわるのが自然であるという決めつけからスタートしている。母親嫌いな子は、母親を拒絶している子は、親の温もりと無縁であった人は、母の日に書かれた、「お母さんありがとう」という無数の不幸の手紙によって、まさに呪いを受けているんです。本来温かかったはずの文字は、冷たく、鋭いものへと姿を変えられてしまいました。すべては、響き渡っている呪文のせいです。

 祝いたければ祝えばいいけれど、でもそれをいいことだと思って、あなたも祝いなさいとか、感謝すべきだなどと言いふらしたりしたときから、そのお祝いは、感謝は暴力になる。母の日自体が持っているその残酷さを忘れてはだめなんです。それは別に、父の日であろうと同じことです。

「なんで母の日に何もしないの?」

 その答えが、たとえば「したくないから」や「できないから」であっても、別におかしなことはないはずです。

 自分の母親とは、親とは、思い描かれているような、想定されているような虚構ではなく、実在の、血肉ある存在なんですから。それに、母親がいないということだってあるでしょう? して当然、できて当然のことなんて、ないんです。

                               (了)

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