生まれてきてよかったのか

 生まれてきてよかったという神を自らの中に拵えようとしてみても、それは偽神に過ぎなくて、私はその前に跪くことができません。私はそれが神様のふりした詐欺師であるという意識を捨てることができないんです。今、無の子どもがつけている生誕という仮面は誰にとってよかったか。何にとって美しいのか。気付けばつけさせられていたそれが息苦しいことを、どうして端的に認めてはいけないんでしょう。今まさに窒息しながら、窒息していないと微笑むなんて、私にはとてもかなわないことでした。結局、夢を見ることができないんです。夢からの剥落が私という何かのようです。

 瞬間の楽しさ、それによって生まれてきてよかったと思い込もうとしたことがありました。でも浸れませんでした。一瞬の喜びは神様たりうるか。私には好きなものがある。好きは神様たりうるか。私は首を縦に振ろうとして、振ろうとして、失敗しました。私が感じる突風に似た喜びは、楽しさは、本当に私のもの? 私が感じるこの淡く重たい好きは、本当に私のもの? それら全てが植えつけられたものではないのか、押しつけられたものではないのかという意識から、私は逃れられません。

 考え方の問題だなんて神様の使いは言うけれど、考え方でそれ自体は変わりません。痛みは現にここにあり、病という衣服を自ら剥ぐことは許されず、死は実際に眼前で手招きしています。考え方では痛みを無には還せず、病気は治らず、不老にはなれず、死は消えず。私は死にます。周りの人も死にます。一切は消えてなくなります。自分という決して逃れられない罰、それを受けながら死ぬんです。私は知らないうちに罪を背負い、そうして罰を宣告されました。

 楽しいことがあるからという柱で建てた家は、その楽しいことがなくなった瞬間崩れてしまう。ほかの柱でも同じこと。生まれてきてよかった、なぜなら。そう理由をくっつけた瞬間、神様は神様でなくなる。滅びるのなら神ではないからです。生まれてきてよかったと理由もなく端的に言えてはじめて、そしてそれが限りなく永遠に持続してはじめて、生まれてきてよかったという言葉は神聖でいられる。だけど指先も唇も理由からは逃れられず、永遠というのは言葉に過ぎない。幸福も同じです。幸福は、よかったを支えられない。それがなくなった瞬間、不幸がひょっこり訪ねてきた瞬間、あっさり崩壊するからです。そして存在は等しく不幸を内包しています。同時に、幸福はごまかしという悪友と手を切れません。私は、今にも崩れそうな脆い神様に寄りかかれません。

 散々言われてきました。思い込もうとしました。生まれてきてよかったんだと。いろいろなことを、したいことを経験できるからよかったんだと。でも考えてしまったんです。その様々な経験、あるいはしたいことができなくなった瞬間、私が抱き締めているこのよかったは、体温で溶けてなくなってしまうこと。やりたいことや経験というものそれ自体、数字や周囲、植わっている価値観や欲求というぎらつきの所有であって、この手で選び取れるものではないということ。そして、生まれてきてよかったという台の上に立ち、何らかの理由でそういった経験やしたいことができない存在を見下ろしていること。そもそも経験とは、やりたいこととは、無から引きずり出されてしまった存在の、必死の自己肯定だということ。

 生まれてきてよかったという神様が、偶然という神様にこうべを垂れている。それを見たとき、私は嘘でもそう思えなくなりました。生まれてきてよかったと、それはいいことだと、どうしても信じられなくなりました。祝福は祝福として自立できない。生まれてきてよかったという表現、その催眠に、かかるふりさえできなくなりました。幸福という結果論で、自分を騙し切れませんでした。

 生まれてきてよかったと言わされている。そう感じるよう強いられている。生まれてきてよかったという言葉の底へどれだけ手を突っ込んでみても、自発という石は沈んでいません。生まれてきてよかったのはなぜか、それは生まれてきてよかったからだという透明性は、純粋性は、神聖さは、ただの空想でした。生まれてきてよかったという神様は救ってはくれません。偽神がくれるのは地獄のような微笑みだけです。
 
                               (了)

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