生まれてきたくなかったあなたへ

 ずっと、押し殺してきたのではありませんか。長いあいだ、必死になって隠してきたのではありませんか。ごまかしてきたのでしょう。たとえば、笑顔を作ったりなんかして。

 けれどもう、よいのです。

 生まれてきたくなかったと、そう叫んでもよいのです。

 それは真実の叫びです。あなたの悲鳴です。悲鳴を呑み込んではなりません。悲鳴とは、上げてよいものなのです。上げるべきものなのです。

 あなたは親とは違う人間です。生まれてきてよかったと感じる人間とは、別個の存在なのです。あなたは、生に対して否定的な感情を持つ命なのです。確かに、命なのです。

 多くの人は、あなたのかすれ声を聞き、あざ笑うでしょう。あるいはあなたのことを憐れむでしょう。親不孝者などというレッテルを貼り、病気とすら言ってくるでしょう。だったらなんで生きているのかと肩を押し、なら死ねよとつばを飛ばしてくるでしょう。あなたの声を決して聞こうとはせず、大声を上げてかき消そうとする。そうして、あなたはもう叫べなくなって、震えて、立ち尽くしてしまう。

 このことを、あなたはよく知っている。知っているから、声に出せない。言えない。呑み込むしかない。いずれは窒息してしまうこともまた、分かっていながら。

 私はあなたに、生きろとは言えません。生きていればきっと、などとも言えません。あなたに送るべき言葉はそんなものではないこと、私は知っています。絶え間なく響き続けている前向きな言葉に、綺麗ごとに、あなたは散々、歯噛みしてきたことでしょうから。もうやめてと、耳をふさいできたことでしょうから。

 あなたに必要なのは、あなた自身の言葉です。生まれてきたくなかったという、己の声です。そう叫んでもよいと、知ることです。

 生まれてきたくなかった。そんなふうに思ってはいけないと、心のどこかで感じてしまうのは、生はよいものだと、生きることは美しく、また楽しいことだと、あらゆるものによって刷り込まれてしまったからです。人生への賛美歌を、絶えず聞かされ続けてきたからです。そうして多くの人が、自分とは違ったふうに、真逆に感じていることを、肌で知っているからです。その人たちの目が、態度が、いかに鋭く威圧的かを、攻撃的かを、その肉体で学んできてしまったからです。

 でも、よいのです。これまで生きてきて、そうして生まれてきたくなかったと、そう感じるのなら、それで構わないのです。なにゆえ、感覚を矯正せねばならないのでしょう。正しい感じ方などないのです。真実は、真理はいつだって、あなたの胸の底に隠れています。

 生まれてこなければ、苦痛も恐怖もなかった。幸せになる必要さえ。

 このことを、あなたの心は強烈なまでに知っているはずです。

 人は、あなたの叫びを無視するでしょう。あるいはその声に、眉をひそめるでしょう。あなたを責め、馬鹿にし、指差すでしょう。ときには人格の否定や、暴力さえ。

 ですから、私が聞きます。あなたの悲鳴。

 そうすれば、私という耳を通して、あなたの心は、あなた自身の悲鳴を聞くでしょう。

 そうしてはじめて、あなたは、あなたがどれほど苦しんできたのか、生きるという、いかに熾烈なことを成し遂げてきたのか、知ることができるはずです。それは、自身を認めること、愛すること、ほめること、幸福を目指すことよりも、ずっとずっと、大切なことなのです。自分の声をごまかしてまで己を認めたところで、生を、世界を肯定したところで、生きたところで、幸せなるものを手にしたところで、楽になれたところで、そんなものは欺瞞なのですから。

 もう、叫んでもよいのです。叫ぼうとしてよいのです。

 生まれてきたくなかったと。力の限り。

                               (了)

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