美しい景色の残酷さ

 この前、机に突っ伏してぼんやりしていたら、窓から夕暮れに呼ばれました。外に出てみたら公園の大きな木の、黄緑の呼吸が金色に燃えていました。

 ゴミ捨て場のそばに立ってじっと見上げました。その日は最近にしては少し涼しくて、日を頭からかぶっていても汗はそんなに出てきませんでした。鳥の鳴き声なんかも聞こえたりして、子どもたちの遊ぶ声も、木を後ろから抱き締めている深い空によく溶け込んでいました。

 これはきっと、美しいと言われる景色。光景。でもそのとき、綺麗とは思いませんでした。そういう感じを抱きませんでした。残酷だなって感じたんです。濃くなっていく木の葉っぱも、鳥や子どもたちの高い声も、影で濡れている小さな花も。少しずつ青ざめていく空気、その懐に包まれている一切が陰惨だなって、そう思ったんです。お尻のポケットに入れていたスマホに残しておく気にもなりませんでした。

 私がそのとき、私ではなかったからでしょうか。それともそのときのそれら一切が、それらではなかったからでしょうか。

 目を奪われる。確かに目を奪われました。美しいものとしてではなく、むごいものとして。

 立っているのに疲れてふらっと歩き出したら、カンカンカンって踏切が鳴って、公園の向こうにある線路に目を向けたら、トンボがひゅんって、頭にぶつかりそうになりました。なぜだかふふって笑ってしまいました。笑いながら、残酷さを家に持って帰りました。

                               (了)

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