きくから

 冷蔵庫から白いたまごを四つ取り出し、パジャマのポケットに忍ばせて。お鍋でお湯を沸かしました。そうして、膨らんでは弾けてゆく透明に、白をそっと、沈めて、沈めて。横の壁にもたれかかり、ひりりと薄赤くなった指先を、瞳でじっと撫でながら、きっかり九分、ゆでました。

 お皿の溜まったシンクに熱湯を流せば、べこりとへこんで。流水で満たせば、腕が震えて。落としそうになりながら、銀の脇にお鍋を置いて、濡れた楕円を取り出して。服で拭いながら、ゆっくり居間へ。

 息を大きく吐きながら、座椅子にぺたりと座り込み、ペン入れにあった黒いマジックで、殻に目鼻を描きました。ある子はタレ目で、ある子はまつ毛を長くして。別の子の鼻は高くして、もう一人の子の鼻は、穴を大きく。最後に、ギザギザの短い前髪を、ぜんぶに被せて。そうやって、できたそれぞれの顔の後ろに、一文字ずつひらがなを書いて、字を裏にして、机の上にまっすぐ並べて。寝室へ。お布団で横になって、待ちました。背中を丸めながら。骨の浮いた胸元を撫でながら。のどをひゅうひゅう、鳴らしながら。夫の枕を抱いて。

 そのうち、鍵の声が聞こえてきて。携帯に目をやれば、変わった日付。足音をやり過ごし、壁に手をつきながら、そっと部屋を出て。光を辿れば、黒いスーツ姿の夫が、机上をじっと、見つめていました。

 部屋に入れば、軋む床。夫はちらと振り返って。青ざめている表情。ただ、紫がかった、色の悪い唇の端は、少し上がっていて。なにもいわずに微笑めば、夫はたまごを指差して。答えずに黙っていたら、カバンを荒っぽく放り、腰を曲げ、白を一つ、手に取って。ころりころりと裏返ってゆく、残りのたまご。夫は文字に、気づいたようで。

「お、か、え」
「おかえり」

 その低くて小さな声の後ろに、かすれ声を立たせたら、こちらを向いて。り、のたまごを持つその太い手は、ほんのかすかに、震えていました。

「なんやこれ」

 なにもいわず、お、のたまごに腕を伸ばし、その大きな顔の横へと持っていって。

「似とるね」
「どこが」
「タレ目なとこ」

 見比べたら、鼻で笑われて。見続けたら、顔を伏せられて。

「寝とかなあかんやろ。起きとったんか」
「起きとった」
「寝られへんかったんか」
「たまご攻撃ぃ」

 あごへ押しつけようとしたら、夫は上半身をのけ反らせて。腕で払おうとしてきて。それでもしつこくやっているうちに、小さく、本当に小さく、夫は笑って。自分の口からも、笑声がくすくす、こぼれていって。

「ひさしぶりやね」
「なにが」
「こうやっていっしょに笑うん」

 浅く息をしながら、にこりとしてみせたら、夫は私を、じっと見下ろしてきて。見返しながら、たまごを自分の口元に寄せ、左右に振り振り。そうしてそっと、ささやきました。

「家事、させちゃってごめん」
「はぁ?」
「お仕事、お疲れ様。ありがとうね」
「なに、なにいうてんねん」
「お礼したげる」
「お礼って」
「たまごに書いてあるひらがな、二文字ずつ後ろにずらしてみ」
「どういうこと?」
「お、やったら、き」
「か、やったら、く、ってこと?」
「うん」
「え、やったら、か」
「そうそう」
「り、やったら、れ」
「繋げて読んでみて」

 促せば、夫の視線が天井へ。

「きくかれ」
「惜しない?」
「はぁ?」
「えぇの思いついた思ってんけどなぁ」
「さっきからなにいうとんねん」
「もうちょっとでな、きくから、になってん」
「なんやそれ。そもそもきくからってなんやねん」
「いうて」
「いうてって、なにを」
「いうてよ」

 じっと見つめたら、夫は一瞬、目を逸らして。もう一つの手に、たまごをそっと握らせたら、短い指は、冷たくて。名前を呼ばれました。うなずけば、夫は下唇を噛み、右手の甲で、私のほおに触れてきて。

 たった一言、つぶやきました。

                               (了)

読んでいただき、ありがとうございました。