命という名の病をうつされて

 命という名の病を意図的にうつされて、いったいどれほどの時間が流れたでしょう。老いという症状は悪化する一方です。水面が鏡が、それを気まずそうに教えてくれます。ほかの命を貪りどうにかそれを遅らせようと、抑え込もうとしても、私はその病状から逃れられない。

 よく熱を出します。皮膚が荒れたり赤くなったり、できものに間借りされたり。咳が止まらなくなったり目がかすんだり。お腹が暴れたり関節が喚いたり。息が苦しくなったり眠れなくなったり。いくら書いても書き足りないくらい、この病はいろいろな痛みを私という樹に実らせます。薬くすり。幸福や楽しみという薬が効く人もいるようですが、私には欠片も効果がありません。偽薬なのでしょうか。プラシーボというカタカナは私には無縁のようです。

 みんなこの病にかかっている。そうして致死率は百パーセント。なのにどうして笑っていられるんでしょう。明るくいられるんでしょう。私は笑ってなどいられない。死んでしまう病気をわざわざ、わざわざうつされたんですから。表情くらい曇るものでしょう。なのに言われる。暗いと。気が滅入るからやめろと。もっと明るくしろと。その明るさが私には症状に見える。私もいずれ明るく振る舞えるようになるでしょうか。楽観というおできを顔いっぱいにつくれるでしょうか。

 命という病がほかの命という病と出くわすともう大変なことになる。なのにお医者さんはいない。病院さえない。手術なんてできないから、取り除けないものばかりできる。逆に必要なものはぽろぽろ剥離していく。治療を治療をと慌てふためいたところで声が掠れるだけ。そうして体は動かなくなる。あるいは勝手にあちこち動く。

「寛解することのない病をどうしてわざとうつしたの? なぜそれは素晴らしいことなの? 幸せなことなの? 誰にとってよいことだったの?」

 そう問うことは許されていません。そんなことを言えば嫌な顔をされます。幼いと怒られます。なんなら死を勧められます。相談窓口はありません。

「私はそれをうつしたくない」

 それもまた許されていないんです。うつすことを強いられ続けて、いったいどれほどの時間を過ごしてきたでしょうか。うつすことが私の義務であり、幸福になるための道の一つであり、社会の問題を解決するための手段でもある。当たり前のこと。当然の行為。私は命をうつさなければならない。それができなければ未熟なのだそうです。自分勝手なのだそうです。身勝手らしい私は、まだ誰にもうつせずにいます。私がうつさなければ、その人はうつさずに済みます。症状で苦しむこともありません。

 周りの人たちが命をうつしているのを見て、そうしてそれが祝福されているのを見て、肯定してみようと思ったことがあります。病のためにつくられた賛美歌を覚えようとしたんです。でも駄目です。声が出ないんです。どんな場面でも歌えませんでした。たとえばハッピーバースデーなんて、口パクでさえ精一杯です。

 病状は日毎に濃さを増していきます。自分と同じ症状が出ている幼さを街や地元で見かけるたび、今後さらに症状が増えていくであろうことを思うたび、私は俯かずにはいられませんでした。誰もが症状なんて気にもしないで、借りもの競争や障害物競走、短距離走や玉入れ、綱引きや組体操なんかをやっている。病におかされ、暗澹という寝床から出られない私にとって、それはもう狂気としか思えませんでした。そんな寝床で、この病から逃げ出す夢を見たことがあります。そのことを思い出すと体が動かなくなります。病からの解放は健康ではないからです。

 この前、カメムシがアパートの階段でひっくり返っていました。踏み潰されていました。私の行きつく先だと思いました。

                               (了)

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