不愉快

 ある人間のしたことが不愉快だと思うのなら、そしてそれを表明したいのであれば、そう言葉にすればいいのですが、そういうときに、人は「不愉快」とは言わない。道徳や倫理や人間性や、社会や人数や他者などという曖昧なものを理由にして、根拠にして、その行為の問題性をでっち上げようと、あるいは極端なまでに誇大化しようとする。自分の不快感に、正しさを付与しようとするんです。

 そんなことを言ったら傷つく人がいる「かも」しれないぞ。そういうことをしたら「みんな」に迷惑がかかるんだから。ほにゃららさん「も」言っていたけどそれってどうかと思う。「人」としてどうなんだ。「お前は」恥ずかしくないのか。

 ただ一言、自分はあなたの行為が、発言が不快であると伝えればいいだけなのに、そうしない。自らの感覚は正しいという意識を持とうとし、お前の言動は正しくないからやめろと叫び続ける。ときには集団を形成し、正しさを標榜しながら表で裏で、こいつはいけないと絶叫する。それは、私が不愉快だからやめろという主張が、社会において通りにくい場面があるからで、ときには第三者の苦笑いにぶたれる可能性があるからで、そしてそのことをよく知っているからです。いかなる行為であろうと誰かにとっての不愉快である以上、不愉快さだけを理由に相手の言動を完全に改めさせることは、封じることは、難しいからです。

 人は正しさという布切れを、自らの不愉快さへ着せてあげることに余念がありません。間違っているんだからやめろという主張は極めて通りやすい。社会的に受け入れられている正義に、慣習に、常識に、道徳に、世間の空気感に寄りかかりさえすれば、相手を屈服させやすい。第三者も容易に納得してくれる。少なくとも表向きは。だから、そんなことを「みんな」がやるように「なったら」どうするんだとか、嫌な思いをする人がいる「かも」とか、「人間」としてとか、「当たり前」とか「普通」とか「当然」とか、とにかく曖昧な形で表現する。もし本当に正しくない行為、発言であるなら、その理由をくっきりと添えて明言すればいいだけのことです。なのにそうしない。実際は、自分が不愉快だと言いたいだけだからです。自分好みにすべてを改変したいだけだからです。そうやって変に言葉を増築した結果、正しさという上階を足そうとした結果、すべてが妙に傾いてしまっています。傾いているだけならまだしも、内装すら傷だらけで、そもそもの柱すらろくにないんです。なにもかもが中途半端なんです。最終的にはレッテルを貼って相手を抹消しようとするのが、その空虚さの証です。

 不愉快さと正しさは、本来別物です。簡単に混ぜ合わせたり、無意識に混同するようになってはいけないものなんです。なのに人は、不愉快さに正しさを羽織らせ続けた結果、自らの不快感を、正しさの発声と聞き間違えるようになってしまいました。同一視は、自然という身分を得たんです。

 不愉快なら不愉快だと、そう言うべきです。自分一人ではっきりと。理由も、添えたければ添えて。なんでもかんでも正しさや昨今の社会問題にすり替えようと、絡めようとするのは卑怯で、荒っぽくて、危なっかしくて。

 本当、不愉快です。

                               (了)

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