誰の誕生日であろうと、私は決して祝わない

 相手が誕生日だと知っても、おめでとうとは言わないようにしています。プレゼントも贈らない。誕生会なんて絶対に参加しないし、自分のときはケーキすら買いません。なにもしない。だって人間が、自らの意志で生まれてきたとは、自ら産道を歩いてきたとは、とても思えないから。

 私はなぜ生まれてきたのか。親の理由は、いろいろとあるんでしょう。子どもがほしかったか、親になりたかったか、世間の圧力に屈したか、気持ちよかったか、ただなにも考えていなかったか。いずれにせよ、どんなわけがあろうとも、なぜ生まれてきたのか、という問いに対する答え自体は単純です。親が性行為をしたからか、あるいは金銭と引き換えに得た科学の力によって受精させられたからです。そこから産声に至るまでのすべては、自らやったことではありません。そんな記憶もなければ、力もない。願ってすらいない。そのとき私は、私だったとは明言できない。高いところに立ち、ものを持った手を離したら、自然と落下していくのとまったく同じように、ただ勝手に大きくなって、出てきただけに過ぎません。

 だから、おめでとうという言葉に、私は違和感を覚えます。おめでとうとは、なにかを成し遂げたときに差し出される言葉か、よいことがあったときに用いられる言葉です。だけど私は、なにをもやり遂げてなどいない。また、生まれてくることがよいことだという結論に、諸手を挙げて同意できない。私は、よいとはなにか、という根本的な問いの答えを知らないし、それを保留したとしても、生まれてくることはよいことだ、とは叫べない。生まれてくることの意義を、理由を、まるで見出せないし、実感できないし、生きることは、自分にとっても他人にとっても、およそ害悪だからです。なぜ害悪か。目を開きさえすれば、分かることです。それを否定するのは、ただ、きれいなものしか見たくないだけ。現実逃避に過ぎません。人生という冷水は、どこに足を浸しても、濁っています。そうして、臭い。

 誕生は、そんなにも麗しいものでしょうか。誰もが好意的に捉えなければならない出来事なんでしょうか。私は誕生というものを、とても恐ろしく、不気味で、おぞましいものだと思っています。それはなにも、人間に限らない。動物が、植物が、生まれてくることを想像したときの、あるいは目の当たりにしたときの、あの気持ち悪さ。血肉を羽織るよう強制され、魂なんて意味不明なものを抱えさせられるという、この異様さ。私は、自分が生まれてきてよかったと、胸を張ることができない。だったらどうして、相手におめでとうなんて言えるでしょう。言って、平気でいられるでしょう。私は、自らにも他人にも、誠実でありたい。たとえそれが、不可能だとしても。

 誕生日を迎えた相手を見て思うのは、また死に近づいたね、ということです。あるいはそう、この一年でまた、たくさんの苦痛を味わってきたね、ということです。もちろん、笑顔になれた日や瞬間も、それなりにあったかもしれない。けれど、だからと言って、おめでとうなんて伝えられない。私はそれを、めでたいとは思わないからです。みんなが幸福と名づけるものは、およそすべて、偶然の産物でしかない。愛してくれる人がいることも、生活できることも、健康でいられることも、高い学歴を得られたことも、地位や名声を手にできたことも、ほしいものが買えたことも、やりたいことができたことも、勝負ごとに勝てたことも、夢が叶ったことも、友人と出逢えたことも、ぜんぶ、たまたまそうだったというだけに過ぎません。笑顔になれたのは、ただ恵まれていたからです。

 これを聞いてむっとする人間は、傲慢です。その不快感は、怒りは、なにも見ようとせず、考えようとしてこなかった証拠です。そういう人間として、それができる人間として、たまたま生まれてきた。この事実を無視してあれこれ言っている人は、等しく信用なりません。一見するといいことを言っている、あるいは聞こえのいいことばかり述べている、そんな人がいたら、ぜひ訊いてみてください。あなたがそうやって過ごせてきたのは、あなたがそれらに囲まれているのは、うまくいったのは、ぜんぶ運じゃないんですかって。ただ恵まれていただけではないんですかって。無視されるでしょうから。邪険に扱われるでしょうから。あるいは部分的に否定されるでしょうから。そうしてそれが、証です。私たちをだまし、惑わし、ごまかそうとする、詐欺師の。

 誕生日とは、この一年間、なにごともなく生きてこられたことに感謝する日なんだ。そんなふうに言われたことがあります。だったら、おめでとうという言葉を使うのはおかしい。おめでとうという台詞を口にすることが一般化されているのは不自然です。誕生日を迎えた本人が、本人のみが、ただただありがとうって、そう述べるべきなんですから。いいえ、もっと正確に、前の誕生日から今回の誕生日までのあいだはおおよそ平和でラッキーでしたありがとう、と言うべきです。幸運最高ありがとう、と叫ぶべきです。苦しくなかった者だけが。口の端に、甘いクリームをつけながら。あるいは肉の油で、唇をてらてらさせながら。

 理解できないのは、誕生日と聞くと、みんながみんな、おめでとうと言うことです。誰もが誕生日を、よいものだと考えている。もちろん、社交辞令で言うこともあるんでしょう。だけど、誕生日は喜ばしいものだという考えが、さも当然のように広がっている。誕生日なんて大嫌い、呪われた日だ、地獄だ、なんてつぶやこうものなら、袋叩きです。視線や態度や言葉という石を、容赦なく投げつけられる。親の気持ちを考えろとか、親に感謝していないのかとか、親不孝者め、なんていう説教も始まる。あるいは、ひねくれているんだねとか、変わったやつだ、不幸自慢か、みたいな評が広がっていく。生誕を嫌悪する人間はおかしいというその発想のほうが、よっぽど不自然ではありませんか。だってそうでしょう。生きるって大変ですよね、しんどいことですよね、と尋ねれば、多くは賛同するくせに、その出発点をにらんだ途端、お前は頭が狂っている、みたいな顔をするんですから。それはおかしいって、つばを飛ばしてくるんですから。大変だからこそ、しんどいからこそ、生きる意味があるんだ、という具合で。

 だけど、そんなのは変です。大変だからよいとか、しんどいことにこそ意味があるんだ、なんて帰結には、そう簡単にはたどり着けない。痛みを伴う困難というものに、勝手な価値づけをして初めて、その結論が出てきうる。だけど、大変なことにこそ価値がある、つらいことにこそ意味がある、という前提は、その根拠が不明瞭で、要するに、多大な願望が混入しているだけに過ぎなくて。また、価値とはなにか、意味とはなにか、という大きな謎を脇に置いてしゃべっているから、結局、極めて適当なもの言いにしか思えない。人生には意味があるに違いない、そうじゃないと嫌だ、どうか意義よあってくれ、という自らの願いを、望みを、叫びを、ただぶつけている。そんなふうにしか見えないんです。

 お誕生日おめでとうという言葉とともに浮かべられた笑顔は、醜悪な暴力です。誕生日を祝うのは、あの日自分は呪われてしまったと感じている個人に対して、よかったねぇと語りかけることなんですから。なのに言う。おめでとうって。誰に対しても。深く考えずに。そういうものだから、という理由で。あるいは、誕生はすばらしいものだっていう、自らの考えが正しいと、当たり前だと、当然だと、本気で信じて。誕生日を祝われて嫌がる人間なんていない。そんなふうに決めつけて。心の底から祝っている。祝おうとする。それが、特定の人たちへの暴行だと、洗脳だと、脅迫だと、圧力だと、決して認識しないまま。その事実を、見ようとしないまま。あるいは知りながら、無視して。そうして、こういった類いの人間に限って、差別について熱く語り、言葉についてぺちゃくちゃ述べる。和についてしゃべり、寛容や他者理解に関してのお話をする。ふざけているようにしか思えません。インチキです。だから詐欺師なんです。

 私には言えません。おめでとうなんて。なにもめでたくなんてないんですから。誕生に直接結びついているのは、誕生が直接もたらすものは、生命であれば逃れられない痛みであって、人間であれば必ず味わう苦痛であって、その個人の性質に特有の苦しみであって、幸福などでは決してないんですから。私は、辛苦と死刑を宣告されたまさにその日のことを、お祝いなんてしたくない。それが自分のであろうと、他人のであろうと。

 誕生日なんて、呪ってもいい。祝う必要のない一日なんです。

                               (了)

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