あなたのためを想って
あなたのためを思って。想って。
そんな言葉を聞くたびに、違和感を覚えます。本当は自分の考えを押しつけたいだけに見えるから、自分のためにしか聞こえないから、というのも、もちろんそうなのですが、そもそも疑問なのは、想っていれば許されると、想ってさえいれば構わないといった、底にあるものそれ自体です。
想いさえすればいいんでしょうか。想ってさえいれば、何を言っても、しても許されるんでしょうか。相手のことを想ったがゆえの行為は、本当に温かいものなんでしょうか。
たとえば想うがゆえに、地獄のような苦しみに悶えている相手を刺し殺すことは。進学先の、就職先の選択を誘導することは。パートナーと別れさせようとすることは。事実を、真実を伝えないことは。人生に口出しし、生き方に介入することは。
想いはただ想いであって、正当化の根拠にはなりません。行為や発言という家の大黒柱にはならないものなんです。確かに想いは、言動というボートをこぐためのオールになるでしょう。でも、想っているからいいんだという発想になったとき、自他を納得させようとしたとき、その言葉や行動は、泥船へと変貌します。
そもそも、想いとは一方的なものです。受け入れられた想いは、たまたま相手がキャッチしてくれた、できただけのことであって、想いとは、抱いている者が自分のタイミングでいきなり投げつけるものです。その力加減はまちまちでしょう。でも、不意に振りかぶって一方的に硬球を投げたという意味では、すべて同じです。相手を怒らせること、怖がらせること、泣かせること、傷つけることが、あって当然のもの。それが想いです。
想っているからといって行為は正しくならない。想ったからといって言葉が浄化されるわけじゃない。あなたのため、などと簡単に自己弁護してはならないんです。相手を想うことは大切だと、安易に標榜すべきじゃない。想いは、温かいものであり得ます。でも、想いだからといって澄み渡っているわけじゃない。想いという水面にだって、濁りはあるんです。自負や驕り、身勝手さや自己愛といったプランクトンの死骸が、確かに浮かんでいるんですから。
想うのであれば、想うがゆえに何かをするのなら、覚悟しなければならないんです。相手がそれを拒絶すること、その想いが相手の首を掻き切ってしまうかもしれないことを。想っているのにどうして、想っているんだから、などと考えるのは傲慢です。想いなど、拒絶されて当たり前のものなんです。ふっと優しくするときでさえ。小さな気遣いを実践するときでさえ。相手は、その想いに熱を感じるとは限らない、まったくの他者なんですから。
想いは、上から下へと流れがちなものです。重力に引かれた水がごとき想いに支えられた言動は、無視されたり拒絶されたり、通じなかったりした途端、怒りや不信、羞恥や戸惑いへと色を変えます。ですがそれは、自らの想いで酩酊してしまっている証です。アルコールを口にすれば、顔が赤くなったり、口が臭くなったりするのと同じように、想いに酔えば、相手にその想いを受け入れるよう、強烈なほど期待し、また強いるようになるものです。ほらほらと、呑ませたくなるんです。呑ませずにはいられなくなるんです。想いとは、それほど勝手なものなんです。
あなたのためを想って。それは、ひどくざらついて聴こえる言葉です。鳥肌が立つほど甲高く、やかましく響く態度です。
(了)
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