やりたいことをやりなさい

 やりたいことをやりなさい。そんなふうにいわれるのが、たまらなく嫌でした。

 自分のやりたいことは誰だって認識できる。そんな気楽な態度に、不潔さを感じるんです。あの、排水口に溜まった髪へ絡んでいる、白濁に似た。

 自分という人間は、そんなにも簡単に分かるものでしょうか。自分の気持ちなんてものが、どうして理解できるというんでしょう。およそ自分というものは、世のうちで最も複雑で、怪奇で、歪なものだと、私は感じています。自分のことが分かるといえる人は、やりたいことはこれだと簡単に述べられる人は、自分という鏡をよく見つめたことのない人間だって、思うんです。だってそうでしょう。あんな曇りだらけの鏡面に、いくら目玉でキスをしたって、なにも見えるはず、映るはず、ないじゃありませんか。

 それに、やりたいことのない人間だっているはずではありませんか。その人のことを想像しないのは、無視するのは、こたつで横になりながらおせんべいをぼりぼりこぼしているのと同じです。別に、かけらを落とすだけなら構いません。だけど絶対に片付けない。一切きれいにしようとしない。そういう汚らしさを感じるんです。いいことをいっている、いうべきことをいっている、正しく人を導いている。そんな、音の割れた甲高い響きが、こぼれた茶色から勢いよく飛んでくるんです。耳の上を噛んでくるんです。やりたいことなんてないよと返そうものなら、なにかあるはずだ、恥ずかしがらずにいってみろ、なんてせりふをぶつけてくる。よく考えろなんて諭してくる。人間にはそれぞれやりたいことがあるんだと信じて疑わない。その口臭に、鼻をつままずにはいられなくなるんです。

 やりたくないことはやらなくていいと、するべきではないと、一見透き通っている水を差し出してきては、それが苦いアルコールだということに気づいていない。自分が酔っ払っていることすら分かっておらず、相手に泥酔することを強いてくる。どうしてやりたいことをやらなければならないんでしょう。やりたいことをやりたいままにしておくことは、そんなにいけないことなんでしょうか。やってしまったらそれで終わりだから、やったら夢想が現実として色あせてしまうから、願いは願いのままにしておくほうが美しいと思うから、叶ったら願いではなくなってしまうから、やるのがどうしようもなく不安で怖いから、だからやらない。やりたいことは、そっと胸底にしまっておく。それは、そんなにも悪いことですか。

 やりたくないことをやっている。それはだめなことでしょうか。そうやって生きている人間だけが放っている淡い影は、踏みにじるべき対象でしょうか。唾棄すべきでしょうか。やりたいことをやるのはいいことだ、なにも我慢するな、なんて名の光だけが、ものを見せているわけじゃありません。そのきらめきが生んだ影だって、確かにものを浮かび上がらせているんです。

 そうせざるを得ない人間から滴っている汗を汚いといいながら、やりたいようにしろといいながら、その唇から、ぎらつくつばを飛ばしている。やりたいことは誰だって必ずできる、できないのはやろうとしていないからで、方法が悪いからで、覚悟がないからで、そのとき運がなかったからで、正しく努力していないからで、なんてまくし立てても、その臭いは。

 それにもし、もしやりたいことが殺人だったり引きこもりだったりしたら。それはいけないと制限するんです。結局、本当の意味でやりたいことをやってもいいとはいっていない。決められた円から出ることを許してはくれないんです。やりたいことをやりなさいというのは、括弧書きのある言葉なんです。許容されたものから選ばないと、髪を掴まれ、胸に歯を立てられて。徹底的に痛めつけられるんです。そうしてその円の広さを決めるのは、世間であって社会でもある、やりたいことをやれといった、その人です。だから人殺しなんて極端なものでなくても、二十五で退職して哲学科にいくことや、アニメや漫画にのめり込むこと、芸術の道に進むことだって、簡単にその線からはみ出してしまいます。お前はおかしいって。それはやめろって。

 これから先も、私は必ずいわれるでしょう。やりたいことをやりなさいって。何度も何度も。

 そのたびに、私はきっと、唇を噛みます。きつく、きつく。血が出るくらい。うつむきながら。

                               (了)

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