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洗濯したAirPodsをキッチンで干す

大切に使っていたAirPodsを、短パンのポケットに入れたまま洗濯してしまった。洗濯機が稼働している途中、なんかカラカラ音がするな、と思っていたけど、まさかこんなものを洗濯しているとは思わず、干すために洗濯ものを取り出している途中、ようやく気付いた。濡れているAirPodsがかわいそうになって、洗濯機のすぐ隣にあるキッチンで中身を取り出してケースと一緒に干した。

母親にこの話をしたら、ウケつつも「そういう話を毎日書き溜めてネットにアップしたほうがいい」と謎のアドバイスをくれた。母はそういう点では私のよき理解者だと思う。私がこういうADHDの症状丸出しの行動をとるたびに、それを実感する。
祖父母はこういったことに慣れていない。鍵を忘れて家を出て、帰れなくなったときには「そんなんで社会でどうやって生きていくの」と言われたし、「忘れ物ないか?」と訊かれたら「たぶん」と答えるしかない私に「たぶんじゃあかんやろ」とマジレスする。だって、たぶんとしか言えへんやん。何かを忘れてるときは、忘れてることに気づけへん。と思う。

ゼミの課題でエッセイを提出したら、「もっと赤裸々に、かっこつけないで書いてほしい」という一意見をもらった。面白い意見だな、と思った。エッセイって、文章のリズムを楽しんだり、日常にあったことをちょっと誌的に書いたりするものだと思ってた。でも、別にAirPodsを洗濯してキッチンで干しているような限界の生活を送っていることを書いてもいいんだな、と思った。

「書く瞑想」という本を今日買って、少しだけ読んだ。習慣化コンサルタントを名乗る古川武士という方が書いた本で、「1日15分、思ったことを飾らずにそのまま書く」という「書く瞑想」を勧めている内容だ。人間は考えていることを書き出すことで、頭の中では処理しきれなかったことがクリアになったり、考えごとでワーキングメモリを奪われていた脳内がすっきりするのだという。
それを試してみて、すでに一日目で効果を実感している。自分が考えていたことに、「実はこれ、こうなんだ」と、別方向からの解決策が湧いてくる瞬間がある。ほんとうに、自分と対話している感じ。これを毎日続けられるようになれば、自分のアンガーマネジメントもうまくいくようになるかもしれない。

そういえば、ゼミの合評会で「句読点が多いのが気になる」と言われた。先生は太宰の影響が大きいと思うとおっしゃった。自分の文章を読んでみると、確かに、句読点の打ち方に独特のリズムがあるように思う。それはやっぱり、自分が良いと思ったものを無意識に真似しているのだと思う。フォロワーで文学にかかわる人でも、そういった句読点の使い方の人をたまに見かける。名のある文豪は、やはり後世に多大な影響を与えたと思う。

今日は久しぶりに低気圧のせいで頭痛がする。昼間もすごく眠かった。洗濯物が、溜まったまんまだ。明日は干せるといいなあ。

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