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「あっ、これ、困るなあ! まるっきり逆なんじゃあないの?」
「ええっ。だってお客さん、鏑木町へってさっき」
「違う違う! おれが言ったのは葛城町! かつらぎ!」
「そんな、私何度も確認したじゃあないですか」
「聞き間違えたあんたが悪い! ここまでの分の料金は払わないからな!」
「勘弁してくださいよ、お客さん、それは困りますよ」
 男はどん、と運転席の背中を蹴り、
「おれを誰だと思っていやがる! お前なんて、ウチの会社が本気出せば、こうだぞ!」
 どん、どんと更に二回。それからフン、と鼻息を立てて、男は後部座席にふんぞり返ると目を瞑った。運転手は何か言おうとしたが、泣く泣くUターン。いつの間にか男はぐぅぐぅと鼾を立て始める。
 しばらくして道路の段差で車が跳ねて男が目を覚ます。それから窓の外を見て、
「おいおいおい、いったい、どこを走ってるんだ!」
 車はいつの間にか曲がりくねった山道を走っている。運転手は男のほうを見るでもなく「もう、すぐそこですから……」とぽつり。
「ええい、さっさと戻れ! ふざけてるのか?! お前のところの会社に言って、お前なんか、お前……?」
 男は運転手の所属を示すものを探すが、どこにも見当たらない。そういえば料金メーターもないんじゃないか? だとすると、この車は一体……。
「すぐ、ですから……」と運転手。
 男は慌てて携帯を取り出すも圏外。その顔がみるみると青ざめていく。
 車は更に山奥へ。道はますます細くなり、そのうちに砂利混じりになって、がたんがたんと激しく揺れ始める。男は半べそで、
「すまない! さっきのことは謝る! だから、許してくれ! 降ろしてくれ! なあ!」
 運転手は無言。男はもう恐ろしくって、本格的にべそをかきはじめる。
 そのうちに、右手にも左手にも見渡す限りの墓・墓・墓。それも割れたり、倒れたり、あるいは名前も判別できないような、いつからそこにあるかも知れぬようなものがごろごろ転がってる。車のヘッドライトの他には何一つ明かりがない。男はもう、わあわあ泣いて謝り、うろ覚えのお経なんかを唱えている。車はなおも先へと進む。
 墓地を抜けると、そこは断崖絶壁。もうおしまいだ、なにか分からないが、おれはここでひどい目にあうに違いあるまい。男はごめんなさい、もうしません、これからは善く、正しく生きますからと、ひたすら謝る。
 車は断崖絶壁の手前で曲がる。暗くて見えなかったがまだ道が下へと続いていた。下り道を細かく曲がっていくと、左手に海が見えてくる。月が、暗くうねる海面を照らしている。海岸ぞいの道路をしばらく走ったところで車はようやく止まった。運転手は何も言わずに車を降りて、海へと向かう。男もぼろぼろ泣きながら、運転手の後を追いかける。
 波打ち際で運転手が立ち止まった。少し遅れて、男が運転手の隣まで追いつき、運転手の顔を見る。運転手は、何かを待つように水平線にじっと目を凝らしていた。男も水平線を見た。
 やがて昏い水平線の向こうから、光が差し込んできた。
「Oh, beautiful sunrise...」運転手が呟いた。
 夜が明けた。
 しばらくのあいだ、徐々に姿を現す太陽を無言で眺めてから二人は車に戻った。海岸沿いを少し走らせるとこの時間からやっている喫茶店が一軒。ふたりはそこで、トーストとゆで卵、ポテトサラダ、ベーコン、味噌汁のモーニング・セットを頼み、向かい合ってそれを食べた。ゆっくりと時間をかけて、噛み締めるようコーヒーを啜った。コーヒーが無くなると店主がお代わりを注いでくれた。やがてぽつぽつと客がやってくる。街に、新しい一日がやってきた。
 午前八時を過ぎたころ、二人は店を出て、そこの駐車場で固い握手を交わし別れた。この運転手と男が会うことは二度と無かった。
 それから男は、時々あの夜の出来事を思い出した。あのうねる海を、空に浮かぶ月を、そして水平線から昇る太陽のことを。

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