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前話 

 午前11時。ぱんぱんに着ぶくれた久美子がぶるぶると震えながらオフィスへ現れる。社員の顔に緊張が走る。
 久美子はよろよろと自席に向かい、着席する。そのまま、「ううう……」と呻きながら前屈みになる。社員たちは互いに素早く視線を交わし、久美子の一挙手一投足を、それに伴う危機から身を守るべく、めいめいが自席にて備える。
 久美子がすっと立ち上がる。そしてコピー機に近づき、トレーをがばりと開け、A4の真新しい用紙の束をひっつかむとまた自席へ。そして用紙を無造作に掴み、ぐしゃ、ぐしゃと握りつぶす。それから、それを棒状に伸ばして、床に落としていく。
 課長の田口以下一同、じっとその様子を伺う。
 床に落とした紙がある程度の量になると、次に久美子はダウンジャケットのポケットをまさぐり、ナイフを取り出す。それを自席に突き立てると、過日、久美子の振るうダガーで肩を切られたばかりの、隣の席の高橋が「ひっ」と短い悲鳴。
 久美子は、更に何かを探してジャケットのポケットというポケットに手を突っ込む。ジャケットのチャックを下ろす。腹のあたりの使い古された軍用ウェストポーチを開き、中をまさぐる。ぴたりとその動きが止まり、果たしてそれが取り出される。
 ファイヤ・スターターであった。
 久美子は突き立てたナイフを右手に、ファイヤ・スターターを左手に持つ。椅子に座ったまま、床に落とした棒状A4用紙の束に、そのふたつを近づける。
 ファイヤ・スターターにナイフの背をあて、シュッ、と素早く擦る。火花。
 ファイヤ・スターターにナイフの背をあて、シュッ、と素早く擦る。火花。
 ファイヤ・スターターにナイフの背をあて、シュッ、と素早く擦る。火花。
 ファイヤ・スターターにナイフの背をあて、シュッ、と素早く擦る。火花火花火花。
「あのっ、久美子ちゃんっ────」
 思わず田口が声を掛けてから、しまったというような顔。
 久美子が田口を見る。
 田口は何とか、「あの……何を、何をなされてるのかな……」と絞り出す。
 久美子はくりりとした、大きな瞳を真っすぐ田口に向け、
「寒いから……」
「寒いから……?」
「その、焚き火を」
「焚き火────焚火を、オフィスで?」
「焚火を、オフィスで」
 久美子がそういうと田口が口を開いたまま押し黙る。久美子は会話が終わったものと思い、再びナイフの背でファイヤ・スターターをシュッ・シュッ・シュッ。
 高橋が椅子ごと、久美子から距離を取る。他の社員も、久美子を刺激しないようにゆっくりと立ち上がり、出口へ向かって後退る。田口だけは出口への動線上、久美子のそばを通らなければならない。動けない。
 幸か不幸か、なかなか火はつかない。
「もうっ」と久美子はぷくっと林檎のように赤い頬を膨らませる。それから、「あっ」と何か思い出したように立ち上がり、オフィスを後にする。
 社員一同、ぐったり脱力する。出口に一番近い土井が、そっとオフィスのドアを開け、久美子の行方を伺う。
「どうだ……?」と田口。
「いえ、なんか、更衣室に……」と土井。
 更衣室にたどり着いた久美子は自身のロッカーを開ける。中はビニール傘・長物・業物が無造作に置かれている。「ええと、何処だっけ……」と久美子はそれらをかき分け、
「あ、あったあった」
 手にしたのは古風めかしいマスケット銃。その用心鉄のあたりに、巻き付けるようにして可愛らしいアップリケの入った巾着袋。久美子は中を開いて火薬入れを取り出すと、マスケット銃を再びロッカーにしまい更衣室を後にする。
「あっ、もどってきた、もどってきました……!」と土井が声を抑えて報告。社員たちは身構える。
 着ぶくれた久美子が再びオフィスに現れる。久美子は椅子に座り先の棒状A4用紙の束に向かって火薬いれを傾け、トン・トン・トン・トン、と慎重に火薬を、「あっ」、ばさーっ。大量の黒色火薬が床に零れる。
 久美子が、おもむろに顔を上げる。田口と目が合う。
「クミちゃん……?」と田口が、赦しを乞う子羊のように呼び掛ける。
 久美子は、悪戯っぽく、ちょっとだけ舌を出す。
「クミちゃん?!」
 久美子は火薬いれを机に置き、みたびナイフとファイヤ・スターターを手に。ファイヤ・スターターの根元にナイフの背をあてると、力を込め、ナイフを滑らせた。
 ぱちっとした火花が散り、床の黒色火薬にぽと、ぽと、と。

 そして爆発があった。

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