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「子育ての鉄則」は果たして存在するのか?

私は、病院経営に携わる前の16年間、首都圏最大手の塾で講師をしていた。東京の受験事情に詳しい方ならお分かりだろうが、都会の受験戦争は苛烈を極める。

その激しい競争のど真ん中で、私は、開成、桜蔭、駒場東邦、早稲田などの学校別対策を行う特別コースの担当を歴任した。
開成高の特別クラスでは会場責任者も務め、当時、日本一の合格者数を達成した。

毎年夏に行われる、首都圏にある120校舎の生徒を一堂に集めた特別講座では、最上位クラスを何年も担当した。私の担当した、ある年のクラス平均偏差値は、なんと「87」だった。

世田谷区の校舎で6年間、校長も務めた。


16年の間に、何千人もの生徒と会った。
超優秀生から少々手のかかる子まで、関わった生徒は様々だ。

講師生活最後の数年間は、漫画「デスノート」の、人の寿命が見える「死神の目」のように、「初めて会った生徒の偏差値が、頭の上に浮かんで見える」という、特殊能力まで身についてしまった。真剣にひとりひとりの子と向き合い、観察してきた経験があって為せる技であったと自負している。

そして、同じ数だけの両親とも会った。どのような両親が、どういう子育てをすれば、どんな子が育つのか、というデータが、私の頭の中にどんどん蓄積されていった。

そんな私が親になった。現在は5歳の娘と4歳の息子を持つ父である。

他人の子はうまく扱えたが、自分の子だとどうだろう。彼らが生まれたときには、ちょっと不安があった。

しかし、何のことはない。他人の子も、自分の子も、結局は同じ子供だった。今まで接してきた生徒たちに通用した方法が、全く同じように使えたのだ。
妻との役割分担がうまくいっていることもあり、我が家の子育ては今のところ、至って順調に思える。

だから、私の知見は多少なりとも役に立つはずだ。
そう思い立って、キーボードを叩き始めた。

どうかこの記事が、子育てに悩むひとりでも多くの両親に届くことを願う。


子育てに必勝法はあるのか?


結論から言おう。

どんな子にも通用する魔法のような子育ての方法というのは

残念ながら存在しない。

少なくとも私の経験上は、ない。

それは考えてみれば当たり前のことだ。
この世にはひとりとして同じ人間はいないからだ。十人十色の個性がある。そして同じ数だけの正解がある。

世の中に多数出ている子育て本というのは、一定の指針を示してくれるものではある。しかし、それが当の我が子に百発百中で命中する、などということは絶対にない。

例えば自己主張の強い子がいたとしよう。
その子にはあらゆる場面で「自己決定」の機会を与えると、うまくいく場合が多い。

一方で、引っ込み思案な子がいたとしよう。
その場合は、むやみに自己決定を強要するよりも、子供の良き相談相手になってあげたほうが望ましいかもしれない。

つまり、その子の個性に応じて、親の振る舞いを、臨機応変に変えてあげる必要があるのだ。

さて、果たしてそんなことが可能なのだろうか。私のように特殊な経歴でもなければ、全ての親が、初めて親になり、初めて子育てをするにもかかわらず、だ。

これも、はっきり言おう。まず無理である。

実際に我が家でも、いつも妻が隣で「それ、御法度だよ」という禁忌を子供にやらかしまくっている。そういうものなのだ。

私が会ってきた両親の95%くらいが、毎日の子育てに悩み、正解を求めて、もがき苦しんでいた。そして私に、事あるごとに相談にいらした。そのたびに、悩みが少しでも和らぐような、過去の似たような親子のエピソードを話して差し上げた。

そんなご両親に、最後にかける言葉は、決まってこうだ。

「大丈夫。みんな、親初心者ですから。他のお父様も、お母様も、同じようにお悩みですよ」


何のために親は子育てをするのか


子供との関係性を良好に保つテクニックは、無数にある。それらは、もしこの記事が跳ねたら、おいおい紹介していくことにして、今回は本質論に留めておくことにする。

何かを行う際は、まずその目的をはっきりさせておいた方がいいだろう。

皆さんは何を目標に子育てをしているだろうか。
我が子に何を求めているだろうか。

優しい子に育ってほしい。勉強を頑張ってほしい。たくさんの友達に恵まれてほしい。夢を叶えてほしい。社会で活躍してほしい。温かい家庭を築いてほしい。。。

きっと親の数だけ願いがあることだろう。

しかし、いずれも平たく言えば、「我が子に幸せになってほしい」ということに尽きるのではないだろうか。

それでは、幸せになるということはどういうことなのだろうか。

いい高校、いい大学に入ることなのだろうか。
いい会社に入ることなのだろうか。
安定したそこそこの暮らしをすることなのだろうか。
結婚をし、一姫二太郎に恵まれることなのだろうか。
我が子の結婚式に涙し、孫の顔を見て喜ぶことなのだろうか。
豊かな老後を迎えて、そして穏やかに一生を終えることなのだろうか。

答えは、当然「否」である。
それは普遍的な幸せなどでは、決してない。あくまでも、親の限られた経験則による固定観念に基づいた、「こうあってほしい」という自分勝手な理想に過ぎないのだ。

時代は刻一刻と変わっていく。
同様に人々の価値観、考え方、ライフスタイルも変わっていく。
当然「幸せのありかた」も変わっていく。

幸せは決して他人がおしつけるものではない。幸せかどうかなんて、本人が決めるものだ。本人が自分の手で掴み取るものだ。

では、我が子が幸せな人生を歩めるように、親は何をよりどころに子育てをすればいいのだろうか。今回はそれをちょっとだけ紹介しよう。

有名すぎて、紹介するのも憚られるが、「マズローの欲求5段階説」という考え方がある。ご存じなかった方は、ぜひググってほしい。

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この考え方を拝借すれば、「衣食住が満たされ、健康的な生活ができ、自分の居場所があり、愛する家族や信頼できる仲間に恵まれ、自己肯定感が高く、自分の夢や目標に挑戦できている状態」が、幸せである、と言えるだろう。

そしてマズローは晩年、自己実現欲求の更に上、「6段階目の欲求」について唱えた。それは「自己超越欲求」だ。これは他者貢献ができている状態、つまり、自分以外の誰かのため、組織のため、世の中のために、心血を注げている状態のことだ。

肝心なのは、自分自身がその状態にある、と心底思えることだ。学歴や社会的地位などの他者評価など一切関係ない。もちろん、自己超越に至る手段として、それが必要な場合はある。しかし、その手段を選択するかどうかを決めるのも、あくまで子供本人なのだ。

「ちゃんと勉強しなさい!あなたのために言っているのよ」

このありふれた親の𠮟責。我が子の幸せな人生を保証するのに、もはや何の根拠もないことは、現代において明白だ。目的もないのに努力することほど、苦痛なことはない。

さあ、いよいよわからなくなってきた。一体親は、子供に何をしてあげればいいのだろうか。ここからはあくまで私の考えだ。


それは全部で4つある。

ひとつめが、健全な心身を育んであげることだ。
そのために必要なことは、生活リズムを整えること、バランスの取れたおいしい食事を、残さずしっかりと食べさせること。十分な睡眠をとらせること。どれも拍子抜けするくらい当たり前のことだろう。だが、これが最も大事なことだ。健全な肉体にのみ、健全な精神は宿るからである。

ふたつめが、色んな所に遊びに連れていくことだ。
特に幼少期、子供は遊びを通してたくさんの刺激に触れ、様々なことを学んでいく。環境さえ用意してあげたなら、あとは極力見守る。少々危ないことをしても、ちょっと服が汚れても、ずぶ濡れになっても、多少周りに迷惑をかけそうになっても、じっと我慢する。そうしたひとつひとつの出来事から、子供は全身を使って、かけがえのない体験を重ねていく。もちろん、取り返しのつかない大きなケガをしそうなときには、全力で止めなければいけない。そのための見守りだ。親という漢字は、「木の上に立って見る」と書く。

みっつめが、社会性を叩きこむことだ。
人間は社会の中で生きている。社会には守らなければならないルールがある。皆が支え合って生きている。それを教え、しつけるのも親の大切な役割だ。
気持ちの良い挨拶をする。帰ってきたら、靴はきちんと揃える。食事中は肘をつかない。人が嫌がることはしない。悪いことをしたらきちんと謝る。他にも色々あるが、こうしたしつけには、一切の妥協をしないことだ。
しつけは漢字で「躾」と書く。身が美しいことは、人生において、得しかない。幼少期に、社会において必要な振る舞いを厳しくしつけられた子は、大人になってからそう育ててくれた親に、必ず感謝するだろう。

よっつめが、子供の「やりたい!」を、全力で応援することだ。
子供がYouTubeをずっと見ていても放っておく。延々ゲームをしていても放っておく。勉強をしたくないのなら、無理にさせなくてもいい。
人に迷惑をかけていないのであれば、やりたいようにやらせておく。とにかく自己決定を尊重することに終始し、余計な邪魔をしないことだ。それが子供の自主性や、やる気を育む鍵となる。親ができるのは、きっかけを与えることだけだ。

「なにゲームばっかりしてるの!少しは勉強しなさい!」と、今日も日本中で、延べ100万回くらいは叫ばれているだろう。

果たして、そう言っている親自身が、子供の時に一体どれだけ勉強したのだろうか。どんなにご立派な学歴があるのだろうか。きっと過去に自らも「なにゲームばっかりしてるの!少しは勉強しなさい!」と親に言われたのではないだろうか。その言葉で「よーし、勉強するぞ!」とやる気に満ち溢れただろうか。決してそんなことはないはずだ。「今やろうと思っていたのに」と、むしろやる気を損ねていただろう。そんな無意味なことを、我が子にも繰り返してどうするのか。

更に悪いことには、その親自身が、ソファーで横になりながら、ずっとスマホをいじっているかもしれないということだ。
「自分はいいんだ。一生懸命働いて、疲れて帰ってきたのだから、ゆっくりしたって」などと言い訳をして。
子供はそういう親の姿勢を良く見ている。子供だって、保育園や学校で、頑張って1日を過ごしてきたのに。

「パパやママは、ずっといえでゴロゴロしているのに、どうしてぼくは、いえでもがんばらないといけないの?」

そこに激しい矛盾を感じた子供は、どんどん親のいう事を聞かなくなる。

自分が子供の時にできなかったことや、今まさに自分が子供の目の前でできていないことを、子供に注意することほど愚かなことはない。むしろ害悪であることに気づくべきだ。

ゲームがしたいなら散々させればいい。大抵そのうち飽きるものだ。一部には狂ったようにやり続ける子もいるかもしれない。依存状態であっては困るが、子供なりの達成目標があるのなら、根気よく挑戦し続ける姿勢は、むしろ喜ばしいことかもしれない。
そのうちプロのeスポーツ選手になって、何億も稼ぐようになるかもしれない。ゲーム実況で、YouTubeのチャンネル登録者数が100万人を超えるかもしれない。ゲームクリエイターになって、ヒット作を連発しているかもしれない。結果、たくさんの人を笑顔にしているかもしれない。

子供に本当に叶えたい夢ができて、それを叶えるために勉強が必要なら、いよいよ机に向かえばいい。そうなって初めて、親は子供のその姿勢を応援してあげればいいのだ。


とまあ、書きたいことをつらつらと書いてみた。
これらも結局、私の経験上、こうしたらうまくいった、こういう親がうまくいっていた、というエピソードを集約したものに過ぎない。

でも、何千というデータを元にした結論なので、そこそこ的を射ているのではないかと思っている。

その答え合わせは、我が子が一生を終えるときに、初めて可能となる。だから、自分の考えが正解だったかどうかわからないまま、私が先に“お星さま“になることだろう。

さあ、今日も1日が終わる。

かわいい我が子たちを、保育園に迎えに行かなくては。


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