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二見浦にあった謎の伊勢神宮寺(廃寺を行く4)

伊勢神宮は長い歴史を有しており、仏教と深く融合していた時代もありました。その嚆矢となったのが、平安時代末期に東大寺の大仏殿再建祈願のため伊勢神宮で法楽を行った、東大寺大勧進の重源(ちょうげん)です。
源平合戦による平家焼き討ちにより、東大寺の大仏は大仏殿もろとも灰燼に帰しました。それを憂いた朝廷は、唐への留学経験があり、そこで得た建築知識で全国の寺院を再興した実績があった重源に再建を命じたのです。このとき61歳。

しかしいかに重源とはいえ、また、各地から多くの寄進を集めたとはいえ、これが難事業だったことは容易に想像できます。特に大仏殿再建に必要な木材の調達は困難を極めました。このため重源ら東大寺衆徒は、我が国尊貴の神である天照大神の助力を得ようと、伊勢神宮への参詣を行ったのです。文治2年(1186年)2月のことです。この時の話は以前も書きましたのでぜひお読みください。

文治2年2月23日朝に東大寺を出発した一行は、僧60名のほか従者も加えて総勢がなんと700名という大人数。25日に山田(現在の伊勢市)に到着し、26日からは伊勢神宮外宮の神宮寺であった常明寺を拠点に、番論議や大般若経の転読などの法楽を行い、その間に重源は外宮の参拝も行っています。ただし外宮参拝は、伊勢神宮の神仏隔離に反するものだったので、神官(一禰宜)の度会光忠の配慮により夜間に行われました。もちろん神前で法楽はできないため、度会家の氏寺であった常明寺で行われたのです。

翌27日、一行は内宮に移動しました。内宮一禰宜の荒木田成長は外宮の対応と異なり、東大寺衆徒を歓迎し、少人数ずつに分かれてながら内宮神前への参拝を許可しました。白昼公然の僧による参詣は極めて異例であり、一連の参詣記録である「東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記」によると、内宮の神聖な雰囲気に随喜の涙を流す僧もいたようです。

この後、一行が逗留して法楽を行ったのが、荒木田成長が二見浦近くに建立した天覚寺でした。28日には法楽を一目見ようと多くの人々が天覚寺に押し寄せましたが、あいにく雨天のため順延。29日から30日にかけて大般若経転読などの法楽が盛大に営まれました。さぞ壮麗なものだったと思います。
この法楽が天照大神の神意にかなったためか、その後、無事東大寺大仏は再建され、建久6年(1195年)3月12日には大仏殿も落慶したのでした。

さてこの天覚寺ですが、歴史の表舞台に出たのはこのエピソードの時くらいで、少なくとも江戸時代までには衰退して所在もはっきりしなくなっていたようです。しかし、先の東大寺衆徒参詣記では、天覚寺には重源のための三間四面という大きな宿坊1棟、僧60名のための五間家の宿坊3棟、さらに従者の仮宿舎と湯殿までが新築され、700名を収容したと記されています。さらに衆徒が滞在した間、二見浦の遊覧や歌会が行われ、食事と珍菓と美酒も供せられるなど最上級の接待を受けてもいます。かなり大規模な寺院だったことは間違いないですが、実際に天覚寺がどこにあったのかは今も謎になっています。

現在有力なのは以下の3説です。(自分調べ)
1 音無山(おとなしやま)説
音無山は観光名所の夫婦岩がある二見興玉神社や、旅館街が立ち並ぶ二見市街地の背後にある小高い山です。倭姫命の伝説もあり、今も山頂から見下ろす伊勢湾と遠くに見える愛知県、静岡県までの景色が美しい場所です。山頂の看板には、この付近に天覚寺跡があったとも書かれており、確かに東大寺衆徒を饗応し、法楽を行うのにもいい場所だったと思えます。

明治時代に書かれた「神都名勝志」には「今、江山(音無山のこと)の上に九百八十坪ほど(3200平米)の平地あり。彊域の形状を存し石積等所々に残れり。」とあり、この出版当時はそういうものがあったのかもしれません。しかし音無山は昭和初期に遊園地として観光開発されたため地形は大きく変貌していて、今では全く場所は不明です。

2 潮音山大江寺説
大江寺(たいこうじ)は二見町きっての古刹で、あじさい寺、ペット供養の寺としても有名です。1300年前に行基によって開山され、内宮神官の荒木田氏、つまり天覚寺のオーナーでもあった一族から千手観世音座像を寄進されたという歴史もあるそうで、ここが天覚寺とは断定できないにしても、深い関連はありそうです。

3 二見美化センター周辺説
これは昭和63年に刊行された「二見町史」の説です。私としては非常に説得力を感じます。
二見町史によれば、荒木田成長は平安時代末期、朝廷の権威が失われ、関東武士の勢力が強くなっていく中で、上野国(群馬県)に御厨(荘園)を拡大させた政治的な有力者でした。関東の御厨からの貢納物は、舟で五十鈴川河口の三津という湊に運ばれ、そこから内宮(荒木田成長)に奉納されていたと考えられ、三津湊付近に「寺屋敷」という地名が残る付近、今の二見美化センター周辺が天覚寺だったのではないかと推理しています。
荒木田成長は、自分だけでなく息子たちも内宮の禰宜職につけるなど剛腕でもあり、重源らへの手厚い饗応も、陰で後白河法皇に求めていた自らの叙爵の見返りだったという説を歴史家の多田實道氏が唱えているのも興味深いところです。

せっかく伊勢に来られたら、ぜひこうしたあまり有名ではないけど歴史のある場所にも訪れていただければと思います。

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