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「(演劇)」 「()」宣言


この宣言文は批評的に扱われる必要がある。
この宣言文をもとに議論が起こり、様々な見方が拮抗することが望ましい。
この宣言文にはこの宣言文の書き換え方も含まれる。


「(演劇)」(カギカッコえんげき)は演劇という言葉とは区別される。従来の演劇の形式では取りこぼしてしまう(広義の)表現を拾い上げるために、演劇の形式自体を再形式化し、それを一時的に「(演劇)」とよぶことにしたもの。従来の演劇の形式とは、例えば、幕開きから終幕、そして拍手までを伴ったステージパフォーマンス一般の形式が考えられる。形式自体を転換することで、より生に近い形で「現代性」が表現されるだろうと考えている。

演劇の素材は社会である ということを前提とする。演劇を作るとき、そこに必ず社会が生まれる。社会とは、何らかの集まりが関係性の糸を結んだものである。演劇は準備段階においても、上演の段階においても、社会が発生している。社会は素材となり、フィクション(ここにはないもの)としての社会を描いている。それが演劇である。

「演劇」は、オルタナティブな社会をメディアとする。(以下、ネオ社会)今の社会に取って代わる かもしれない ネオ社会を媒介として、立ち会う人々とともに戯曲によって形式化されたネオ社会を実際に作ってみて、人々の中のネオ社会への想像力を喚起する。その後、上演で体験したことばにならない感覚をあえてことばにして今回の体験に名前をつけてもらう。ここまでが「(演劇)」の形式。

「(演劇)」における戯曲という概念は、ある作者によって考案されたネオ社会の法則を指す。戯曲はことばであり、ことばは法則性を司る。上演は無秩序性、偶然性を司る。戯曲と上演が拮抗し合う中に「(演劇)」の独特の輝きがある。ここで作者によって考案された戯曲はあくまでその作者によるネオ社会への仮説でしかない。なので参加者も含めてこの仮説=戯曲を更新していく時間が「(演劇)」には伴う。
「(演劇)」はことばをおりなおす力を大きな権力に委ねるのではなく、社会を生きる一人ひとりがその力を持つのを促すことによってじわじわと社会を変革していく運動でもある。

いずれ「(演劇)」の演劇の部分を取り除き、より普遍的な、「芸術」にかわる形態になりうる、「()」を作る。それもまた形式化され、演劇、その他芸術や芸術でない諸ジャンルの歴史性、伝統性を十分背負った上で、ことばの上でそれらの重みを切り落としたい。

「(演劇)」は演劇であるという定義を生かしていく、すこし専門性のある分野として、「()」はより普遍的な技術として存在できる。

「()」はあらゆるひとが使うことができるメディアであってほしい。
「()」のなかに変えてしまいたい言葉を入れて、それを何らかの方法で本当にことばが変わった社会、もしくは世界を上演して、観てくれる誰かと話して新しいことばを考えて名付ける。二人以上で行うことが望ましい。
これがしっくりこない人はその人がしっくりくる表現形式を作ってみてください。様々な形式があり、分散している状態が望ましいです。

ベトナム戦争を止めたのはテレビだった。

テレビ放送された戦争の現実に世界中の若者が動いた。

「メディア」と人間精神が噛み合った時、全く新しい世界が回り始める。

それはテクノロジーが人間を一方的に変えていってるということではないはずだ。

でも、今世界を変えることはテクノロジーにだけ期待されているし、その結果テクノロジーを作った人間やそれを買うことのできる資本に権力が集中する。

それは根本の権力構造のようなものを残したままの変化でしかなかった。

技術と精神は互いに拮抗しあっている状態で始めて世界の形を根本から変えてしまうことができるのではないか。

精神と技術が両輪になって現状の閉塞感を突破していく。

「()」はメディア・アートとしても機能する。

「()」は精神的なWeb3.0だ。

この形式が古くなって、人の自由を奪い始めたら、この形式を書き換え、その時々であなた達が自由になれる形式をつくってください。


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