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観てない舞台を語る: 「第2世代の選択」

これも、この眼で観たことは無いのだが、60年代アングラ演劇の次に興隆した”小劇場運動第2世代”の演劇から「五つの舞台」を選んで、Twitterで語ってみた。その内容を再掲するとともに、第2世代のそれぞれが、自身の”劇風”を選び取る様を俯瞰して、改めて考えた幾つかのことを、備忘としてここに記しておこうと思う。

1.つかこうへい「初級革命講座 飛龍伝」(1973)

つかこうへい氏には、広末涼子氏や黒木メイサ氏、そして桐谷美玲氏と著名な女優陣が次々と主演した「飛龍伝」という大劇場向け戯曲もある。そのルーツとも言うべき本作は、「安保闘争に挫折した活動家のその後」を焦点に描いた三人芝居。

タイトルにもなっている「飛龍」とは、闘争で投げられる投石の石、その中でも際立った活躍を果たした”銘石”の名である。この設定からして人を食っているが、劇中では「飛龍、この石は飛ぶ時、流れ星の様に尾を曳き、まるで龍が首をもたげるように一度ホップして、機動隊のジェラルミンの盾を貫く」と、空々しい迄に美しく描写される。

「空々しくて美しい」、1973年の学生達が”革命”に向ける眼差しもそうだったのかもしれない。この急速に移ろう時代感を、掴んで形にして、舞台に示して見せたことが、本舞台の成功要因であり、まさにつか氏の読み勝ちということだろう。

2.つかこうへい「ストリッパー物語」(1975)

”演劇すごろく”という言葉がある。劇団が成長に伴い上演会場の席数と格式を高めていく様子を指す。自らが保有する天幕(紅テント、黒テント)や。劇場(天井桟敷館、早稲田小劇場)を会場としていたアングラ世代の頃には存在しない言葉であり、”つか以降”と表される概念の一つ。

早稲田学内で大評判を集めたつか氏は、本作で初めて青山のVAN99ホールという商業ホールに進出する。既につか流の演出は完成の域にあり、”口立て”によって稽古場で作られた高速でポップな芝居が若者を掴み、この舞台の観客動員は4,000人を超えた。

3.つかこうへい事務所「蒲田行進曲」(1982)

1982年、”劇団つかこうへい事務所”の解散公演が紀伊国屋ホールにて異例の七十日間ロングランという形で行われた。3万枚を超える前売券が売切れ、まさに絶頂の中での解散公演となった。

紀伊国屋ホールは開場以来、新劇の常打ち小屋であり、”小劇場”出身劇団による上演は、1976年のつかこうへい事務所が初めてだった。席数418(固定席のみ)のホールは既に”小劇場”とは言えず、舞台美術も演出も演技も、異なる工夫を求められただろう。

当時はまだ状況劇場も天井桟敷も現役で公演を打っており、師匠筋の早稲田小劇場もギリギリ東京に居た頃(76年夏に利賀へ移転)である。つか氏に向けて、”商業演劇”という批判的な声も少なくなかったのではと推察する。

そういう状況を、つか氏がアゲインストと捉えたかどうかは分からないが、全く異なる環境へ、若者の街”新宿”のど真ん中への進出を選択したことが、つか芝居に圧倒的な人気と動員をもたらしたのだと言えよう。

小劇場”第2世代”と言えば、先ず「つかこうへい」の名前が挙がる。往時の熱狂ぶりも、以後への影響力も段違いなわけである。彼により小劇場はアングラ臭を捨て、スリルと笑いを纏う”若者のエンタメ”に変わったのだ。

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4.T.P.O師★団「寿歌(ほぎうた)」(1979)

「紙雪が降り注ぐ中を、3人の男女がリヤカーを引きながら進んでいる」、これだけの説明で、演劇人の誰もが答えられる有名舞台が、かつてあった。

北村想氏が書いた「寿歌」は、”核戦争後の世界”を”虚無的な明るさ”で描き大評判となる。アングラ世代が背負った重厚さも身体性も感じられないが、北村氏が独自に選び取った「観て、そして演って楽しい演劇」の姿があるように思う。

練習し易い三人芝居の戯曲は、学生劇団や高校演劇で盛んに上演され、後続の第3世代に「核戦争後の週末世界ブーム」を巻き起こした。

実は「寿歌」の戯曲には、アングラ世代唐十郎氏の「少女仮面」から一節が引用されている。第3世代の演劇人は、それをいったいどう読んだのだろうか。興味は尽きない。

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5.劇団転位21「うお傳説」(1980)

山崎哲氏は本作で岸田戯曲賞を受賞する、36歳のときのこと。遅咲きの第2世代だが、演劇を始めたのは24歳のとき、唐十郎氏率いる状況劇場に入団し、常に第1世代(アングラ演劇)近くに居たことになる。

後に山崎氏はインタビューで「唐十郎ら世代の強烈な実績は何だったのかを見極めるのに時間を費やした。その間に全く別の方向からつかこうへいが現れ、引っ掻き回された」と語っている。

先達の影響から逃走を図りながら、異次元の同輩との闘争にも巻き込まれたことになる。”守破離”を唱えるは優しいが、一途に師を慕った者ほど、離れるのは容易でなく、同輩との闘争がは自分自身との闘争であると気付くまでも苦悩の連続であったのではないだろうか。

本戯曲は他テキストからの引用が多く、全文が山崎氏のオリジナルと言えるかは疑念が残る。しかし、逃走と闘争の狭間で書かれた本作は、業界を超えて立場を超えて、苦悩するビジネスパーソンの我が身に詰む。

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まとめ: 「第2世代の選択」を俯瞰しての備忘録

特に、第2世代のトップランナーであるつかこうへい氏の主要舞台に着目して、公演毎の観客動員数を比較してみた。一部に推計値を含むが、先行するアングラ世代や、後続の第3世代の舞台も並べて作成したのが以下である。

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第2世代(つまり、つかこうへい氏)とは、「桁を変えた世代」であったことが良く分かるグラフとなった。上野の森でのテント芝居が幾ら話題に上ろうが、丸山明宏を擁しての”女装劇”がどれだけ記憶に残ろうが、アングラ演劇はサブカルの域を越えられず、エンタメ消費の域までは届かなかった(もちろん、それを目指していた訳でもないだろうが)。

つかこうへい氏は慶應義塾大学入学当初より、”小説家”として名を成すことを強烈に志し続けたそうである。演劇はその為の手段であったのかもしれない、重要なのは当時、”演劇”というジャンルが「手段」足りえるほどに成熟していたことであり、それはアングラ世代の功績なのだろう。

前世代が築いたルールの中で最大に成り上がったつか氏は、「都心の商業ホール進出」という選択を行う。批判も苦労もあったのは想像に難くないが、その決断の結果が上記グラフということになる。”桁を変える”ことで、つか氏自身も功を成し名を遂げて、後続する第3世代に小劇場演劇を「従来とは違うルールが支配するゲーム」として引き渡した

そこに”80年代バブル”が重なり、小劇場第3世代は未曽有の盛り上がりを享受することになる。それは偶然だったのか、必然だったのか。この頃のこともまた語ってみたい。

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