希死念慮が最近ちょっとひどい(実行予定はないけれど)

最近希死念慮がひどい。元々自己肯定感が低く、自分はなんの取り柄もなく役に立たない人間だという意識が自分の根底に強烈に存在している。「自分を褒める」みたいな自己肯定感を上げるための試みはおそらく一通り試したが、自己否定が頑固な一枚岩のように立ちはだかってどうしても倒せなかった。自分で自分を褒めた時は「私が褒められるのは間違っている」という意識が働いて喉を通るのに大変時間がかかるが、「私なんていない方がいいんだ、死んだ方がいいんだ」みたいな言葉はひんやりとしながら心地よく自分の中に落ちていく。自分で自分を何か褒めようものなら5倍返しで自分を否定する言葉が頭の中に響く。私の趣味・行動・選択などについて自分の理想に沿うまで何でもかんでも否定するタイプの親のもとで育ってきたが、いくら染み付いているとはいえさすがに30代半ばにもなったら親のせいにしないで自力で軌道修正したい思いもある。でもうまくいかない。

それに加えて私はとても疲れやすい。以前も記事にしたが特に夏場の体力消耗は最悪だ。恥を忍んで言うとここ数日まともに布団の上で寝ていない。朝起きて、昨日の私が脱衣所や廊下で力尽きたことを思い出す。大抵の場合、お風呂の準備だけした形跡がある。冷めた風呂を早朝に沸かすのは今季何度目だろうか。
疲れやすさについては土日や平日夜が寝たきりになってしまい人生を奪われている感が強いため、なんとかしないといけないと思って長年試行錯誤してきた。ジムに通ったし病院にも通ったし論文も読んだしサプリメントや漢方も色々試した。今のところ市販の漢方薬と鉄剤に課金して最悪の頃より多少マシにはなったが、それでも趣味を楽しむほどには戻っていない。生活を維持するためにただでさえ持分の少ない体力気力を仕事と家事(※)に割り振る結果、何かを楽しむための余力なんか残らないし、そもそも今現在何に対してもワクワクしなくなってしまった(※本当は仕事と家事「と育児」と書くべきだが、疲れ果てて子供にまともに構ってあげられないことも多く、親として情けなく涙が出る)。

私は人生を強制参加のマラソン大会のように感じている。マラソンが得意な人とマラソンが好きな人、あとなんだかんだマラソンを頑張れる人は構わないが、私のようにマラソンがしんどくて仕方がない人間も勝手にエントリーされている。参加辞退は原則できない。多少走りを緩めることは許されるが、どれだけしんどかろうが生活を維持するためにとにかく走り続けることを強制される。
私はこのマラソン大会を降りたい。これから先も途方もない長い距離を走り続けるにはあまりにも疲れ果ててしまった。より正確に表現すると「人生を退職したい」と思っている。「死にたい」というと何かしら能動的で苦しみを伴う方法をとらないといけないが、私はそれを味わいたいわけではない。私は、生と死の間に飛行機のラウンジや新幹線の待合室みたいな場所があったらいいなと思っている。本当はそこでまた走れるようになるまでゆっくり休憩したい。でも生憎、そういうシステムにはなっていない。

今の政治は若い世代が貧乏になるように出来ている。そんな中で私はなるべく多くのお金を子供のために蓄えておきたい。必ずしもお金があれば幸せになれるという保証はないが、お金があれば将来に対する選択肢が広がって不幸を回避できる可能性が上がると思っている。私が生きて仕事と家事さえしていれば子供により多くのお金を残せるし、夫が仕事により集中出来る。私の人生の価値はその部分のみにあると思っているので、子供が無事成人した暁には首を吊るなりしてこの辛いマラソン大会を棄権したいと思っている。

断っておくが今私は大変幸せだ。こんなに素晴らしい夫と出会うことが出来たのは奇跡だと思っているし、朝起きるたびに「え、なんかむちゃくちゃ可愛い子が私の隣で寝ている!!」と幸せでいっぱいになる。前職も前々職も漆黒ブラックだったため大変な思いをしたが現職は本当にホワイトで、給料は少ないものの良い環境で仕事をさせてもらっている。

でもどうしても体力が追いつかない。あとダメな自分と毎日毎日対峙するのが辛い。私は強烈な睡魔に襲われる日は脱衣所や廊下で力尽きるが、そうでない夜は「なんで私なんかが生きてるんだろう」「お金も稼げないし家事もこなせないし何の才能もない私に生きてる価値なんかないのではないか」「(私と生年月が同じ著名人で自殺なさった方がいらっしゃるが)この人は才能豊かだったので本来死ぬべきなのは私の方なのではないか」という考えが頭の中をぐるぐる埋め尽くして動けなくなってしまう。

なんの取り柄がなくても何かしら生きがいがあれば良いのかもしれない。先日Twitter(今はXか)で「人生っていうのは『頑張らなきゃ』じゃなくて『楽しまなきゃ』なんだよな」みたいな名言が回ってきて沢山の共感コメントが付いていたが、私は正直「息切れ寸前のマラソン大会を『楽しまなきゃ』と言われても、何をどう楽しめというのか」という思いだった。実家を出てから生活を維持するのに精一杯で趣味らしき趣味もなく、何かしら趣味を作ろうとジムに行ったり子供の服を作ってみたり中国語を勉強してみたりしたが、(もちろん、それなりの面白味はあるものの)ワクワクとは程遠かった。今現在の辛うじての趣味は「レコードを聴く」ことと「紅茶を飲む」ことだが、レコードプレーヤーを置いてある部屋は今は夏場のため暑くて籠もれる状態ではなく、熱い紅茶も淹れる気になれない。かといって紅茶を水出しする程の甲斐性もない。
世の中には推しが生きがいの人も沢山いることだろう。私にも一応推しはいるが、故人なのでもし誰かに「人生が辛い時は推しに会いに行くといいよ!」と言われたら意味が変わってしまう。今の推しだけでなく「存命の推し」を探す必要があるかもしれない。
最近感じた幸せってなんだったかなと振り返ったところ、「美味しい食べ物を食べている最中」は毎回幸せでいっぱいになることを思い出した。しかし、食べ終わって目の前から食べ物が消えてしまうといつもの私に戻ってしまう。

私は前述の通り、今日明日に命を絶つ予定はないので心配はなさらないでほしいがそれでも定期的に苦しい夜がやってくる。これをどうやり過ごしたらいいのか分からない。ネガティブで意地悪な心の声と喧嘩することもあるが、勝てない。やつは強いのだ。そもそも喧嘩する体力すら残っていない日の方が圧倒的に多い。以前通ってたメンタルクリニックにまた通うかな、とも思うけど、受診したところで(先生はむちゃくちゃいい先生だけど)私の体力がむちゃくちゃ上がるわけでも何かしらの才能を与えられるわけでも、私がバリバリ稼げるようになるわけでも家事をこなせるようになるわけでもないことはよく分かっている。とりあえずなるべくよく食べてストレスを溜めない、くらいしかやれることはないのかな。


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