【映画】「燃えあがる女性記者たち」感想・レビュー・解説

映画としてメチャクチャ面白かったというわけではないが、扱われているテーマはとても興味深かった。

インドの最下層カーストの女性が新聞社を立ち上げたというのだ。インドで唯一、「女性記者のみ」の新聞社である。

インドには、紀元前からカースト制度が存在し、4つのカーストが知られている。しかし、その4つのカーストにさえ入らない、「階層外」の扱いを受ける人たちがいる。「ダリト」と呼ばれる人たちで、「不可触民」扱いである。日本で言う「穢多非人」みたいなものだろうし、現在もまだ続く「被差別部落」の問題に通じるものがあるだろう。

しかし、当然と言っていいのか分からないが、インドの方が差別は苛烈だ。ダリトの中でも特に女性の扱われ方は酷いらしく、暴力など日常茶飯事だそうだ。

そんな彼女たちが、新聞社「カバル・ラハリヤ」を立ち上げた。「ニュースの波」という意味だそうだ。2002年に、ウッタル・プラデーシュ州で週刊の新聞として立ち上がった。映画には国政選挙の様子も映し出されるのだが、「ウッタル・プラデーシュ州での勝敗がインド全土に影響する」と説明されていた。公式HPによれば、インドでも4番目に面積の大きい州であり、人口はインド国内でも最大だそうだ。

正直なところ、僕には「カースト制度」がいまいちピンと来ない。別に、インドの話だからというわけではない。僕は以前、『私のはなし 部落のはなし』という、部落差別を扱ったドキュメンタリー映画を観たことがあるのだが、それを観てもやはり、「部落差別」にピンと来なかった。日本の部落差別の場合、「生まれた地域」で差別されるかどうか決まってしまうそうだが、正直何を言っているのか意味不明だ。同じように、「カースト制度」も、一体何で決まっているのか良く分からないが、とにかく僕には、そんなことのために差別される理由がまったく意味不明でしかない。

インドで作られた映画なので、当然カースト制度について詳しく説明してくれるわけではない(階層外のダリトという人がいるという話は、冒頭で字幕で表示されていた)。映画の中では、「ジャーティ(出自のこと)が同じ相手とでないと結婚できない」みたいに言及されていた程度だ。あと、「ダリトだと知ると、空室でも部屋を貸してくれない」という話もあったか。

ある女性記者は、ジャーティを聞かれた場合、まず相手のジャーティを聞き、「バラモン」と返ってきたら「私もバラモンよ」と答える、みたいなことを言っていた。それで相手の反応がどうなるのかについては触れられていなかったが、とにかく「見た目で判断できること」ではないことは間違いないだろうし、とにかく全然イメージ出来ない。

映画の中ではもちろん、女性記者たちが様々な取材を行う様が映し出されている。これも説明はなかったが、恐らく彼女たちが取材しているのは、カースト最下層か、あるいは自分たちと同じダリトの人たちなのだろう。だから、取材先の人たちは「同じぐらいの身分の人」といえるだろう。しかし、彼女たちは当然、警察署で話を聞いたり、政治家にインタビューしたりする。彼らは間違いなく、カースト最上位だろう。そしてそういう人たちも、別にダリトである女性記者たちと話をする。もちろん、これは「ダリトだから」なのか「女性だから」なのか、あるいはその両方だからなのか分からないが、記者の話にまともに対応しないようなケースもある。しかし、そうではないケースもある。つまり、「バラモン」と「ダリト」も普通に会話が可能、というわけだ。僕が知っている身分制度は「士農工商」ぐらいだが、この時代は、「武士」と「穢多非人」が会話をするなど、きっと許されなかったのではないかと思う。まあ、明らかに時代が違いすぎるとは言え、そういう状況を見ているとやはり、「カースト制度って一体なんなんだ?」と感じてしまう。

かつて「記者」というのは、カースト上位者の職業だった。だから、2002年に彼女たちが新聞社を立ち上げた時には、冷ややかな目で見られていたそうだ。そういう視点は、きっと今でも完全には払拭されていないだろうが、状況は少しずつ変わってきた。映画の冒頭は2016年が舞台なのだが、女性記者の1人は、「14年掛けて、概念を覆してきた」と語っていた。

この映画の撮影が何きっかけで行われるようになったのか分からないが、2016年は「カバル・ラハリヤ」にとって大きな転換点となった年だ。というのも、「紙媒体から映像への移行」を決断したからだ。週刊の新聞を無くしたわけではないと思うのだが、ネットでの配信に力を入れるようになった。映画の冒頭は、メインで描かれるミーラという主任記者(最終的に局長になる)が、「スマホなど触ったことがない」という者を含む女性記者たちに、スマホの使い方から動画の撮り方などを教える場面から始まる。映画の中では、その時点での総再生回数が随時表示されるのだが、映画撮影中のある時点で1億5000万回を超えた。かなり影響力のあるチャンネルと言っていいだろう。

その影響力は、現実のものとして影響を与えている。彼女たちは、「感染症が蔓延しているのに医者がいない村」や「まったく舗装されていない道路」など、困っている人たちの日常生活に寄り添うような報道を行っているのだが、それぞれ、すぐに医者がやってきたり、道路が舗装されたりと成果が表れた。「不名誉だから」と、被害者側がなかなか被害を申告しようとしないレイプ事件も取り上げ、1週間後に容疑者が逮捕されたりもしている。これこそまさに「報道が担うべき役割だろう」と実感させられた。

さて、映画の中では、「女性記者たちの、ダリトであることの不自由」についてはあまり描かれていなかったが、「女性であることの不自由」についてはかなり扱われていた。家族からの理解がなかなか得られないのだ。「夫のいる女性が外で働くのは変だ」「女が夜遅くまで仕事するなんて、外で何をしているか分からない」みたいな目線を、夫から向けられるのである。ミーラの夫は、「役に立つことを優先すべきだ。まずは家事だ」と、「女は家庭を守るべき」的な発想を口にする。この辺りの考え方については、日本も大分遅れているとは思うが、インドの前時代感はなかなかのものだと思う。しかし、映画に登場する女性記者は強い。ある人物は、「あんたは捨てても、仕事は捨てない」と夫に言い放っていた。

また、ある女性記者は、「独身で居続けるつもりだったけど、結婚した」と語っていた。その理由は、「家族からの圧力をかわせなかったから」だそうだ。インドでは、女性が結婚せず独身のままだと、「本人や家族に問題があるのでは」と受け取られるのだそうだ。一昔前の日本もそうだったはずだが、インドは今もそのような感覚だという。それを語った女性記者にしても、自分がそう思われるだけなら耐えられただろうが、「娘を結婚させないなんて、娘の給料が惜しいと思っているに違いない」と、家族まで悪く見られる視線には耐えかねたということだろう。まったく酷い話である。

とこのように、「女性記者たちが取材している先」のことよりも、「女性記者たち」に関心が向く感じがある。映画も、恐らくそういう意図を持って作られているだろう。彼女たちが取材する現実もそりゃあ酷いものだが、やはり「遠いインドの話」と受け取られてしまいかねないと思う。しかし、女性記者たちの話は、「自分たちの話だ」と感じられる人が多いように思う。どこにでも差別は残っているし、厳しい状況に置かれている人たちはたくさんいるだろう。しかし、インドの最下層中の最下層に生きる女性たちが、「真っ当な民主主義」のためにジャーナリズムを突き進んでいる姿に、やはり共感してしまう人は多いのではないかと思う。

映画のラスト付近、ミーラがこんな風に言う。

【私たちはいずれ、このような問いを突きつけられるだろう。報道が抑圧された過渡期に、一体何をしていたのか、と。
私たちはそれに、胸を張って答えることが出来る。権力の座にある者の責任を問い続けた、と。】

自信に満ちた言葉だし、同時にこれは、「私たち以外のメディアはそうではない」という皮肉でもあるだろう。ミーラは冒頭の方で、「ジャーナリズムは民主主義の源」とも語っているが、まさにその通りだろう。

毎年発表されている「報道の自由度ランキング」というものがある。2023年のランキングを見てみると、日本は全180ヶ国中68位。これもかなりの低さだが、インドはもっとヤバい。なんと161位だ。ロシアが164位、トルコが165位、イラクが167位、ミャンマーが173位、シリアが175位、イランが177位、中国が179位などの国と大差ないということだ。人口が中国を抜いて世界一となり、若い世代が多いこともあって世界経済の中心になるのではないかとも言われているインドだが、ジャーナリズムが機能していない国の土台はなかなか脆いだろう。

映画のラストでは、「カバル・ラハリヤ」の支局が州外にも置かれることになったなど、その勢力の拡大っぷりが示されていた。ダリト女性による「ジャーナリズムの革命」は、大国インドを救うのかもしれない。彼女たちの挑戦がどんな現実を引き寄せることになるのか、楽しみである。

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