【映画】「牛久」感想・レビュー・解説

僕は、『東京クルド』という映画を観るまで、日本の難民が置かれている現実をまったく知らずにいた。

『東京クルド』でも、充分その酷さが理解できたつもりだった。

しかし、『東京クルド』と『牛久』では、描かれている状況がまったく違う。まずその話から始めよう。

『東京クルド』でメインで映し出されていたのは、難民二世の若者2人だ。両親と共に、幼い頃に日本に難民としてやってきた。彼らは、日本語がペラペラで、恐らく日本の普通の若者よりも丁寧に日本語を喋る。小中高も日本の学校を卒業している。しかしそんな彼らは「仮放免」という状態にあり、就労が認められずにいる。そんな若者たちをメインに描く映画だ。

そして、「仮放免」の状態にある彼らはまだまだずっとマシなのだということが、『牛久』を観ると理解できる。

そもそも「仮放免」とは何か。これは、「本来収容施設に収監されていなければならない存在だが、一時的にそこから解放されている状態」を指す。日本に難民としてやってきた難民申請者は、原則的には「収容施設」に入れられるのだと思う。そして、そこから「仮に放免されている状態」の者もいる、というわけだ。

そして、そんな難民申請者を収容する施設が日本の各地にあり、難民申請者で溢れかえっている。

なぜ溢れかえっているのか。それは、日本が難民認定をほとんどしないからだ。

この映画では、2010年から2019年における難民認定率、つまり、「難民申請をした者の内、どのくらいの割合で難民が認定されるのか」の数字が示されていた。実に、0.4%である。これは、他の先進国と比べたら、2桁違うぐらいの、圧倒的な低さだ。

『東京クルド』でも、若者の1人が隠し撮りした音声に、「自分の国に帰ってよ」「日本じゃない国に行ってよ」みたいなことを平然と口にする職員の声が記録されていたが、『牛久』でもある収監者が、「とっとと帰れ」「あなたはほしくない」と言われたみたいなことを証言していた。

もちろん、難民を受け入れるかどうかはその国の自由なのだから、「難民は受け容れません」と宣言しているなら、別にそういう態度もまあしょうがないかもしれない(それでも許容しがたいが)。しかし、『牛久』では、G7伊勢志摩サミットにおける各国の合意文書からの抜粋と思われる文章を引用していた。そこには、要約すると、「難民を率先して助ける」と書かれていた。

日本もその合意に加わっている国なのだ。であるなら、表向きは「難民を受け容れています」みたいな風にしながら、その実まったく受け容れていないようなやり方はクソみたいな話だと思う。

何も悪いことをしていないのに、塀の向こうに閉じ込められている人々の、日本への”皮肉”が心苦しかった。

【「日本はおもてなしの国」だなんてよく言うよな。これがおもてなしか?】

【東京オリンピックが延期になったそうだね。嬉しい。正義が金メダルを獲ったような気がするよ】

しかし彼らは決して「日本」を憎んでいるというわけではない。全員がそうかは分からないが、収監者の1人は明確に、「これは日本の問題ではなく、入管の問題だ」と断言していた。その理由は、

【日本の人々には、この問題は知られていないから】

だ。これもまた、僕たちの心をグサグサと突き刺す言葉だ。

しかし、僕に一番刺さったのは、この言葉だ。

【私は、日本のことをほとんど知らずにきた。
日本でこんなに苦しむと分かっていたら、母国で死んだ方がマシだったかもしれない】

これはあまりにも悲しい言葉だろう。そして、そう言わせているのは私たちなのだ。

こんな想像をした。かつて「地上の楽園」と喧伝され、多くの日本人が北朝鮮へと移り住んでいった。北朝鮮に移った人々はまさに同じことを感じたのではないか。

「私は、北朝鮮のことをほとんど知らずにきた。
北朝鮮でこんなに苦しむと分かっていたら、母国で死んだ方がマシだったかもしれない」

あれこれ書きすぎて、肝心なことにまったく触れていない。この映画は、全国にいくつかある難民申請者の収容施設の1つであり、かなり規模の大きな男性専用の施設である「牛久法務総合庁舎」が舞台に展開される。収容施設はどこもそうらしいが、面会時にはスマホやカメラの持ち込みは禁止されている。つまり、撮影は一切認められていない、というわけだ。そんな収容施設の面会室に隠しカメラを持ち込み、収監者たちの許可を取り、モザイクもかけず、音声も変えず、ほぼ全員が実名で登場する。

これがどれほどリスキーなことか伝わるかもしれない話を紹介しよう。

映画の中に頻繁に登場する「ハンスト」という言葉がある。「ハンガーストライキ」、つまり、「何も食べないことで抵抗を示す」という行動だ。そして収容施設では、「ハンストすると2週間仮釈放がもらえる」という手段が常套となっている。

しかし、そのハンストの生半可なものではない。人によっては80日間もハンストし、ようやく2週間の仮釈放を得ることもあるそうだ。そもそもだが、彼ら収監者は、いつまで収容施設に留め置かれるのか知らされない。4~5年いるのが当たり前だそうだ。

体調が悪くても医者には診てもらえず、診てもらえても「ゴミみたいな扱い」をされるそうだ。

そんな環境下で、「カメラで撮影され、映画として世間に広まること」が分かった上でそれに協力していると知れたら、何が起こるか分かったものではない。しかし、そんなリスクを背負って、現状をとにかく訴えたいと協力を申し出る者たちによってこの映画は成り立っている。

映画の8割以上が、「隠しカメラの映像」か「真っ黒な画面で電話の音声が流れる」かのどちらかで構成されている。ドキュメンタリー映画でも、これほどまでに「まともに得られる映像」が存在しない作品もなかなかないだろうと思う。

しかし、僕がこの映画で最も驚いたのは、そういう「監督が撮影・録音した素材」ではない。

映画の中で、ある収監者が、「職員と今裁判をやっている」という話をした後で、すぐに映像が切り替わる。その映像は、その収監者が大勢の職員に取り押さえられ、手錠を掛けられ、懲罰室へと連れて行かれるまでの一部始終が撮影されたものだった。

僕は最初混乱した。この映像は、一体誰が撮っているんだろうか? と。しかし、収監者と職員のやり取りを聞いて、なんとなく理解した。撮影しているのは収容施設の職員で、恐らくそれが規則になっているのだと思われる。

さて、当たり前の事実についてここで整理しよう。撮影しているのは収容施設の職員だ。「防犯カメラ」のような固定カメラの映像ではなく、明らかに職員が手持ちのカメラで撮影している。ということは、基本的な発想としては、「表に出ても問題ない映像」と考えているはずだろう。少なくとも、「これが表に出たら自分たちがマズい立場に置かれる」と彼ら自身が認識するような映像を”わざわざ”撮らないだろう。最悪、理由をつけて「撮っていなかった」ことにすればいいのだから。つまり、「撮って記録しているということは、それが表に出ても問題ないとその時点では判断している」と考えるのが妥当な考え方だろう。

そしてそうだとするなら、あまりにも恐ろしい。何故ならそれは、「職員がリンチしているような映像」にしか見えないからだ。8人ぐらいの男が、1人の収監者を押さえつけ、怒声を浴びせ、力でねじ伏せる様が記録されている。

恐らくこの映像は、弁護士からの証拠開示請求か何かで出てきたものだろう。そして、職員にはそういう可能性が想定されていたはずだ。実際に映像の中で、収監者が「裁判で訴える」と言うのに対して「訴えてみろ!」と返す場面が出てくる。彼らは、自分たちが撮影している映像が、「証拠」として外部に出る可能性を認識していたはずだ。

そして僕は、「この映像が表に出ても問題ない」と考えているその思考にこそ恐ろしさを感じた。というのも、そうだとするなら、「あの映像のようなことは、収容施設における”日常”だ」と判断するしかないからだ。職員の感覚が恐らく麻痺しており、世間一般の価値観と恐らく大きく乖離しているのだと思う。そして、収容施設内の理屈で物事を判断しているが故に、僕らが「あまりに酷い」と感じるような映像を、「表に出ても自分たちが非難されるはずがない」と認識出来ているのだと思う。

そのことに、僕は一番の恐怖を感じた。

同じような話は、別の収監者もしていた。話としては、こちらの方がより酷い。彼は難民申請の認可が下りず、その結果を受けてすぐさま強制送還の手続きが取られたそうだ。その出来事があった翌日に監督との面会があり、まだ心の整理がついていなかっただろう収監者の証言を適宜予想して僕なりに補うと、以下のような話になる。

申請が却下され、強制送還が決まると、すぐに成田空港へ連れて行かれた。帰還させられたら殺されるかもしれないから必死で抵抗していると、収容施設の職員から殴る蹴るの暴行を受けた。とにかく大声を上げて叫んでいると、航空会社の人がやってきて、英語で「どうしましたか?」と聞いてくれた。事情を説明すると、「そうであれば搭乗手続きはできません」と言われたから、こうやってまた施設に戻されたんだ。

当初は、面会室で口頭で話していたこのエピソードは、後々、恐らくこれも証拠開示請求か何かで提出させたのだろう複数枚の写真(恐らく映像から静止画を切り出している)が連続して映し出されていく。その収監者は、「写真では彼らの邪悪さは伝わらない」と言っていたが、それでも、あまりに酷いと感じるような扱いをしていることが伝わる写真だった。

これも同じだ。「このような写真を出しても、自分たちは非難されることはない」と、明らかに市民感覚と乖離した価値観を持っているから平然としていられるのだと思う。

マジでヤベェ。

また、仮釈放の際に顔写真を撮るようなのだが、その際に「笑顔で」と言われたという話は、あまりにも無神経で凄まじいと感じる。その収監者は、「あなたたちのせいで笑えなくなった」と返したそうだが、それが正解だろう。自分たちが普段どんな振る舞いをしているのか自覚した上で「笑顔で」と言っているとすれば、職員は全員サイコパスなのではないか、とさえ感じてしまう。

マジでヤベェのは政治家も同じだ。映画には、石川大我という政治家が登場し、国会答弁の様子も映し出される。この映画の監督と手を組み、難民収容施設の現実を改善しようとしているのだ。国会答弁では、この映画にも登場する収監者で、「自殺未遂をしたことで懲罰室へ隔離され、そのせいでさらに精神状態が悪化し自殺未遂を繰り返してしまう人物」について取り上げた後で、法務大臣にこんな質問をする。

【仮放免者は就労が認められていますか?】
【仮放免者は生活保護を受けられますか?】
【仮放免者は国民健康保険に加入できますか?】

この答えは、すべてNOだ。つまり、仮に仮放免を勝ち取れたとしても、働いてはいけないし、生活保護も受けられないし、健康保険にも入れないのだ。

どうやって生きればいいのだろう?

石川大我は「収容施設に多くの難民申請者が収容されている現状をどう解決するか?」と問うのだが、法務大臣は、要約すると「送還を促進することで問題を解決しようとしている」と答えていた。もっとざっくばらんに言えば、「勝手にやってくる難民が悪い。しかも送還を拒否する者が多い。だからとにかく、強制送還をじゃんじゃんやって、収容施設の収容人数を減らします」と言っているわけだ。

法務大臣もバカではない。質問の意図と答えが噛み合っていないことぐらい理解しているだろう。しかし現状の日本では、そう答えざるを得ない何かがある。それが何かは、正直僕にはよく分からない。何か大きな力が「難民を絶対入れてはならん」と押さえつけているとしか考えられないが、その理由もよく分からない。もちろん、ドイツのように大量の難民を受け入れることによる問題は生まれることはあるだろう。しかし現状の日本は、そんな心配をしてると知れたら笑われてしまうほどの認定率しかないのだ。

何を怖がっているのか僕にはまったく理解できない。国が「夫婦別姓」を認めない理由もまったく意味不明だが、難民を認めない理由もまったく分からない。

ホントに、恥ずかしい国だなと思う。

非常に皮肉なことに、コロナのお陰で(あるいは「せいで」)、それまでほとんど認められなかった仮釈放が大量に認められることになったそうだ。2019年12月31日時点で、全国の収容施設に942人の難民申請者がいたのだが、コロナ以降その75%に仮釈放が認められたという。ハンストしてやっと認められるかどうかというほど許可されなかった仮釈放があっさり通るようになったのは、収容施設内のコロナ蔓延をよほど恐れているからだろう、と語っていた。

しかし、忘れてはいけない。仮釈放が認められたところで、働けはしない。ある人物は、

【仮釈放から5ヶ月、たった5ヶ月ですよ、でもその間に、何度自殺しようと考えたか分からない】

と言っていた。

繰り返すが、このような状況は、僕たちが知らないから、関心を持っていないからこそでもある。「難民」と聞くと、自分と関係ある話には思えないだろうが、これを無視して「民主主義国家」を名乗るのはあまりに恥ずかしいと僕は感じてしまった。

この記事が参加している募集

映画感想文

サポートいただけると励みになります!