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森美術館「Chim↑Pom展 ハッピースプリング」の展示が凄かった

美術展を観に行って文章を書くのは、たぶん初めてだと思う。今までそこそこ美術展を観てきたけど、とにかく、過去イチと言っていいぐらい脳にズバンと突き刺さった。

一番ガツンと来たのは、台湾の美術館に展示した「道」という作品だ。これは、美術館の入り口から駐車場、そして建物内部までを、実際にアスファルト舗装した道路を敷いたものだ。

特に説明されなければ、「それが何なんだ?」というものでしかないだろう。

しかしこの展示は、「公共とは何か?」を問う、非常に斬新な展示だった。

一般的に「道路」も「美術館」も、「公共性の高い場所」と認識されるだろう。しかしこの両者の「公共性」は決して同じではない。「道路の公共が許容するもの」と「美術館の公共が許容するもの」は重ならない。基本的には、道路上でできる行為の方が多くなるだろう。美術館の公共性は、図書館などと同じく、利用者の行動を制約するほうに強く働くと言っていい。

さて、そんな「道路」を美術館内部にまで敷くとどうなるのか。つまり、「『美術館内』では本来許されない行為が、『美術館内の道路上』なら許されるのか」という奇妙な問いが成り立つことになるのだ。

この発想は天才的だと思う。Chim↑Pom展の最初のブースにこの「道」が登場するので、冒頭から頭をガツンとぶん殴られたみたいな衝撃を受けた。

Chim↑Pomは実際、美術館側と交渉し、「普通なら許容しないが、『道』の上でなら許可する」という行為をいくつか認めてもらえることになる。上の写真の説明にもあるが、美術館がオフィシャルには許可しなかったデモを「黙認」という形で許可する、なんていう場面もあったそうだ。

先程記事のリンクを貼った『街は誰のもの?』という映画の感想の中で、「『街はみんなのもの』から「街は誰のものでもない」という風に考えが変わった」みたいなことを書いた。普段「公共」のことなど考える機会がないから、大いに刺激される映画だった。そしてChim↑Pomの「道」も同じように、普段考えもしない「公共」について、頭を巡らす機会になった。

「美術館内にアスファルト舗装の道路を敷く」という行為によって、「当たり前のモノの見方を壊す」ことに成功している。僕としてはかなりの衝撃だった。

あるいは、「Don't Follow the Wind」と題された展示も凄まじかった。森美術館で「Don't Follow the Wind」が見られるわけではない。森美術館で”展示”されているのは、「『Don't Follow the Wind』の開催概要」だけだ。

つまり、「『Don't Follow the Wind』という展示の紹介」だけを展示しているのである。

文章で説明すると意味不明でしかないが、行けば一発で分かる。

「Don't Follow the Wind」というのは、2015年3月11日から現在に至るまで開催され続けている展示である。開催期間は未定。私たちは、永遠に見られないかもしれない。

その理由は、この「Don't Follow the Wind」が、福島県の帰還困難区域内で開催されているからだ。その区域内にある民家の協力を得て、今も作品を展示している。制限が解除されれば僕たちもその展示を観に行けるわけだが、それがいつのことになるのか分からない。

この開催を紹介する森美術館での展示室には何も置かれておらず、ただひたすら音声が流れている。誰がどんな意図でこの展覧会を開催したのかを説明する音声だ。何もないだだっ広い空間に、ただひたすら音声だけが流れる。企画者たちと民家を提供した者以外、恐らく誰の目にも触れていない展覧会をただ紹介するだけの展示だ。

音声には、民家を提供したらしい人物も登場する。しかし、この音声を収録している時点で既に自宅の解体を決めたそうで、その解体と共に展示も消えた。今も、3軒の民家で展示が続いているそうだが、僕らがそれを見られる日が来るのかは分からない。

また、そんな日が来たとしても、そこでの展示は、展示が開始された当初のものとは大きく変わっているだろう。家の一部が崩れているかもしれないし、動物などに荒らされているかもしれない。時間が経てば経つほど、展示されているものは劣化していく。そういう、朽ちていく時間も想像させる。

またこの展示は、その展示室から東京のビル群が見える、という点も非常に対比的だと感じた。恐らくこれも意図的なものだろう。

壁に「Don't Follow the Wind」の企画者などの名前が書かれているだけの空間に音声が響き渡り、その向こうに東京の街が見える。恐らく荒廃しているだろう町とその民家に展示されている誰の目にも触れない展示。そして対象的に、コンクリートに埋め尽くされた東京の街とその中にあってもかなりの高層建築物内で「何も展示しない」ことを展示する部屋。その圧倒的な落差に、クラクラするような想いがした。

それがどんなものであれ、芸術作品は「誰かの目に触れてこそ価値を持つ」はずだ。しかし「Don't Follow the Wind」は、「誰も見ることが出来ない」という点にこそメッセージ性が帯びることとなり、意味が見いだされる。東日本大震災という未曾有の大惨事を、何も見せないことによって可視化するというその発想力に恐れ入った。

どの作品を見ても感じる凄さは、「社会問題を、『芸術というアンチテーゼ』によって可視化する」という点だ。もちろん、「芸術」というジャンルそのものにそのような機能が内包されている側面もあるだろうが、Chim↑Pomは「芸術」のその機能を純粋培養して煮詰めに煮詰めたようなことをしていると感じる。

社会問題の難しさは、当事者にとっては深刻そのものの現実だが、当事者以外には視界に入らないということにある。当事者かどうかによって、「見える/見えない」がまったく変わってくるのだ。

また、「社会問題」はメディア等で一瞬取り上げられ話題になることはあっても、どんどんと新しい話題に押し出されてすみやかに風化してしまう。東日本大震災ほどの衝撃的な出来事でさえ、やはり、発生当時に比べれば、自分の中でもどんどんと関心度は下がってしまっている。当事者であればともかく、当事者以外の人間には、社会問題に関心を持ち続けるのはなかなか難しい。

あるいは社会問題の中には、「目に見えにくいもの」もあるだろう。映像記録がほとんど存在しない時代に起こったことや内面的な辛さなど、目に見えるものではないが問題として間違いなく存在しているものもある。

このように「社会問題」は「見ない・見えない」ことになってしまう。そしてそれを可視化し人々の関心を喚起するのがChim↑Pomだと思う。

僕がChim↑Pomの名前を初めて(そして恐らく唯一)聞いたのは、「広島の空に『ピカッ』を描く」という騒動の時だ。その騒動が報じられた時、具体的に状況を理解しようとしたわけではないが、個人的には「面白いことを考える人たちがいるものだ」と感じた。

森美術館でも、この「ピカッ」が、騒動当時の状況を年表にしたものと合わせて展示されていた。

世の中には色んな人間がいるのだから、どんな物事であっても「ムカつく」「気に食わない」「好きになれない」という人は出てくる。この「ピカッ」に関しても、被爆者の方たちから直接抗議の声が上がったそうだが、僕はそのことは当然だろうと思う。被爆者の人たちにだって色んな人がいる。どれぐらいの人が抗議したのか分からないが、「空に『ピカッ』を描くなんて気分が悪い」と感じる人がいて当然だと思う。

だから僕は、被爆者の反応については言及しない。

そして、被爆者ではない僕は、「面白い」と感じた。

結局のところ、「議論」が生まれなければそこに「関心」は存在しないと言える。「関心」があるから「議論」をするという状況もあるが、「関心」から始まる場合、「関心を持っていない人」を巻き込むことが難しくなる。どうしたって狭くなってしまうのだ。しかし、先に「議論」が生まれてしまえば、賛否はともかくそこに「関心」が生まれる。

そして「ピカッ」は、「議論」を巻き起こすことでそこに「関心」を呼び覚ましたと言っていいし、だからこそ「面白い」と感じたのだ。

被爆者の人たちによる「『ピカッ』は不愉快だ」という反対は、「当事者による感情」であり、それがどんなものでも許容されるべきだと思う。しかし、当事者ではない人間は、「『ピカッ』は何故良くないのか」を考えなければならない。

「不謹慎だ」とか「被害者の感情を逆なでする」みたいな、当事者ではない者による反対には、僕は意味がないと考えている。何故なら、世の中のどんなものに対してもその反対は当てはまるからだ。「幸せな家族が登場するCM」に対して、「虐待を受けていた人や離婚した人には、幸せな家族の描写は不謹慎だ」と主張することもできる。世界中の誰一人傷つけない表現など、この世の中には存在しないと僕は思っているのだ。だから、「私は傷ついた」という当事者からの訴えはすべて許容するが、「これは誰かを傷つけるはずだ」という当事者以外からの訴えは無意味だと考えている。

さて、そんな風に考えた場合、「『ピカッ』が良くない理由」を何か挙げられるだろうか? 法律に触れているわけではないし、直接的に誰かを貶める言葉でもないし、もちろん肉体的に誰かを傷つけてもいない。被爆者の中に「不愉快だ」と感じる者がいるという以外、何も起こっていないだろう。

そういう意味でこの「ピカッ」は絶妙だと感じるのだ。確かに僕も、一見すると「良くない」ような気がする。そういう「不謹慎さ」をまとった行為であるように思える。しかし改めて突き詰めて考えた時、果たしてこれは本当に非難されるべき問題なんだろうか、とも感じるのだ。そういうものだからこそ「議論」が生まれることになるし、だからこそ「関心」が呼び覚まされる。

「誰もが共感するもの」では「議論」は生まれない。「共感」も確かに人々の「関心」を喚起するだろうが、前述した通り、「社会問題」はなかなか「共感」に向かない。だからこそ「議論」を生み、そのことによって「関心」が生まれることに価値があるように僕は思う。

展示を観ながら「ドーナツの穴」のことを考えていた。

私たちの目の前にある空間は、ただ「何もない空間」としてしか認識されない。というか、そもそも認識すべき対象として捉えることもないだろう。しかし目の前に「ドーナツ」があれば、ついさっきまで認識さえされていなかった空間の一部が「ドーナツの穴」として捉えられることになる。これは、ドーナツがそこに存在することによって生まれたものだ。

Chim↑Pomの芸術にも似たようなところがある。「社会問題」は当事者以外の者にとっては「認識する必要があると感じていない空間」のようなものだ。しかしそこにChim↑Pomは、「芸術という名のアンチテーゼ」を置く。すると、「ドーナツ」が「ドーナツの穴」を生み出すように、「芸術という名のアンチテーゼ」が「社会問題の存在」を浮き彫りにするのである。

例えば広島の原爆の話で言えば、「折り鶴」の問題があった。広島には世界中から折り鶴が届くのだが、その保管場所に苦慮していたのだ。そのことを知ったChim↑Pomは、「広島から折り鶴を預かり、それを四角い紙に戻し、再度それを折り鶴に折ってもらう」というプロジェクトを始めた。

これによって、「折り鶴を送るという行為を継続させながら、折り鶴そのものは増やさない」ことが実現できるようになった。面白いことを考えるものだ。森美術館内には、写真のように折り鶴を四角い紙に戻したものが置かれており、折り鶴を折ってくださいと書かれている。僕も折ろうと思ったのだが、自分でも驚くべきことに、折り鶴の折り方をすっかり忘れていた。不覚である。

結局のところChim↑Pomの活動は、「どこに着眼したか」というそのスタート地点にこそ最大の価値があると言っていいだろう。誰もが見過ごしていること、誰もが当たり前だと思って意識を向けずにいること、そういうものを明確に捉え、さらに「社会問題」を浮き彫りにする「アンチテーゼ」として、「どう違和感を生み出すか」を重視している。現実に社会に対して何らかの影響を与えることをはっきりと目論んでおり、「着眼」「違和感」「バズらせ方」などすべてにおいて見事だと思う。

「ピカッ」と同じく問題になったようだが(なんとなくニュースで目にした程度の記憶はある)、渋谷駅にある岡本太郎の絵が飾られている壁に、岡本太郎の絵に接続されるような絵を追加する、というゲリラ的な活動も、非常に面白いと感じた。

これもまた「ピカッ」と同じく、「議論」を引き起こすものとして非常に絶妙なバランスで生み出されていると思う。一見良くなさそうだが、じゃあどう良くないのかと聞かれるとちょっと悩んでしまうような上手さがある。タイミングやその目的、岡本太郎の絵を選んだという点まで含めて、すべてが見事だと感じる。

コロナ禍の緊急事態宣言中だからこそ出来たプロジェクトや、Chim↑Pomのエリイ(彼女こそがChim↑Pomを牽引するリーダー的な存在のようだ)がデモの宣言を都に届け出を出して結婚パーティーみたいなことを警官に囲まれながら堂々と路上で行ったことなど、「今この瞬間に何をすべきか」「『当たり前』を壊すためにどうすべきか」を常に考えて行動しているのだと感じさせられる点が素晴らしいと思う。

ふざけているようにしか感じられないものも多々あるが、しかし、「当たり前」を乗り越えてるにはふざけるしかないとも言えるだろう。「今の常識では不謹慎」というラインに立ち続けることは難しい。そのラインの内側に留まれば、社会問題を可視化するような刺激を与えられない。しかしそのラインから離れすぎてしまえば、社会からただ猛反発を食らうだけだ。「不謹慎ライン」にギリギリ乗るぐらいの活動をやり続けているからこそ新しいものが生み出せるのだろう。

「不謹慎ライン」ギリギリを歩き続けるためには、逆説的ではあるが、「世間の当たり前」を誰よりも深いレベルで理解していなければならないだろう。恐らく、Chim↑Pomというチーム全体として、そのバランス感覚が絶妙に取られているのだと思う。

僕は初めて見たが、森美術館のこの展示の入り口には、それそのものがChim↑Pomの展示でもある託児所が用意されている。

これもまた、「当たり前」をぶち壊す展示と言っていいだろう。

僕はそれなりには美術展に足を運ぶが、大体毎回モヤモヤして帰ることになる。「よく分からなかったなぁ」という感じになってしまうのだ。その理由は明白で、「思考が刺激されない」からだ。芸術はどうしても「視覚情報」がメインになる。もちろん、鑑賞のためにはある程度教養的な知識や背景情報を理解している必要があることも分かってはいるが、それでも、やはり「観て何を感じるか」が重視されるだろう。

しかしChim↑Pomの作品はどれも、視覚よりも思考が刺激された。僕にとっては、そのことが非常にスリリングな体験だった。

良いものを観たなぁ、と思う。こういうものに出会えるから、「ほとんどがつまらない世の中だけど、もうちょっと頑張って生きてみるか」と感じられる。

「芸術」というものの価値と可能性を大いに実感させられた展示だった。

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