【映画】「街は誰のもの?」感想・レビュー・解説

面白かった。

まずこの映画その存在を知った時に感じたことは、「街は誰のもの?」というタイトルが実に秀逸だ、ということ。今まで僕は、そんな問いについて考えたことがなかったからだ。

そこで、この映画のタイトルを見て瞬時に思ったことは、「街はみんなのものだろう」ということだ。

ただ、映画を観て、この捉え方は間違いだ、と感じた。「間違い」というのは、少し正確な表現ではないのだけど、その辺りはややこしいので後回しにしよう。

まず、映画を観る前も観た後も変わらない、僕の「公共」に対する考え方を書いておこう。

街でも学校でも公園でもなんでもいいが、それが「公共」に属するものである場合、やはりその「公共」を取り仕切るルールに縛られるべき、というのが大前提だ。僕は「ルールが誤っている可能性は常に存在する」と考えているが、その一方で、「ルールには従うべきだ」とも思っている。もしルールが誤りだと思うのであれば、正しい手続きでルールの改正を目指すべきだ。それをせずに、ただルールを破ることは、僕は正しくないことだと思う。

だから、この映画で描かれる「グラフィティ(街のシャッターや民家の壁に無許可で絵を描くこと)」は、すべてルール違反だし、ルール違反である以上はやるべきではない、というのが僕の考えだ。

これが、僕の大前提である。この点は、映画を観終えた今も変わらない。その上で、あれこれ書いていこうと思う。

ちなみに、映画では「グラフィティ」の他にも、スケボーや露天商、デモなど、「街」をある種破壊的に使用する様々なモチーフが登場するが、映画の中で最も面白かったのがグラフィティの部分なので、この記事ではその点に絞る。

まず僕が面白いと感じたのは、映画冒頭で登場するグラフィテイロ(ブラジルでは、グラフィティアーティストをこう呼ぶらしい)のこんな発言だ。

【無許可でありイリーガルであることが、グラフィティの前提条件だ】

これは、非常に示唆に富む発言だと感じた。

ちょっと別の話をする。少し前にテレビで、元プロ野球選手がこんなことを言っていた。その人物は大学野球部時代に主将に就任したそうで、その野球部では主将がすべてのルールを決めていいということになっていたらしい。そこで彼は、寮の門限(夜12時)を撤廃した。

すると、これまで12時を超えて寮に戻ってきた連中が、皆12時前に戻ってくるようになったという。

その理由について彼は、「『ルールを破っている俺ってカッコいい』ということを見せられなくなったのだから、誰も12時過ぎて帰ろうとしなくなった」と分析していた。

つまり、「別に12時以降に寮に戻ってきたい理由はないが、『門限』というものがある限り、それを被る行動をしたい。しかし、『門限』がない以上、もうそれを破ることはできないのだから、12時以降に帰ってくる理由がなくなる」ということだ。

なるほど面白い、と感じた。もちろんこれは、すべての「ルール」に適用できる話ではないと思うが、確かに、「ルールが存在するが故に、『ルールを破るという行動』も存在する」という見方は一定の説得力がある。

さて、グラフィティに話を戻そう。彼は「無許可でありイリーガルであることがグラフィティの前提条件だ」と言っていた。となれば、もしも「街中で無許可に他人の壁に絵を描くことを禁止するルール」が存在しなければ、「グラフィティ」は存在し得ない、ということになる。

確かに理屈としてそれは正しい。しかし一方で、「だからと言って、『他人の壁に絵を描くという行為』が無くなるわけではないだろう」とも思う。

どういうことか。

映画に出てくる何人かのグラフィテイロは、グラフィティに対して、「非常に身体的」「重要なのは描いた絵ではなくその体験」「心臓がバクバクする」というような表現をしていた。そして、そのような経験のために「グラフィティ」をやっているというわけだ。

つまり、「無許可でありイリーガルであることがグラフィティの前提条件だ」というのは、「無許可・イリーガルでやるからこそスリリングであり、それこそがグラフィティの真髄だ」ということになる。

では、「他人の壁に絵を描くことを禁止するルール」が無くなったとしよう。すると、スリリングな行為である「グラフィティ」は確かになくなるだろう。しかし、「グラフィティ」ではない、ただの「落描き」が無くなるわけではない。むしゃくしゃ・イライラした人間が、衝動的に破壊行為として落描きをするという行為は、「グラフィティ」とは関係ないものであり、だから無くなることはないはずだ。

つまり、「他人の壁に絵を描くことを禁止するルール」が無くなれば、「落描き」が増え、「グラフィティ」が街中に存在する以上に街の景観も治安も悪化するということになりかねない、と思う。

「グラフィティ」には、一定のルールがある。もちろん、すべての「グラフィティ」は違法なのだが、彼らは彼らなりに、「場所へのリスペクトが必要」「正しい場所でやらなければならない」「誰かが描いたグラフィティの上に自分の絵を重ねることはしない」など、ある程度の規律が存在する。そして、そうである以上、同じように「法を犯して描かれるもの」だとしても、「落描き」とはまったく異なる性質を持つと言えるだろう。

つまりこういうことだ。「他人の壁に絵を描くことを禁止するルール」が存在することによって、無許可・イリーガルな「グラフィティ」が存在し得ることになり、それは「落描き」という無法地帯を排除する結果になっている、と。

このような考察は、映画で描かれるわけではなく、あくまでも僕が勝手にしているものだ。しかし、もの凄く外しているということはないと思う。

さてこんな風に考えた時に、「『グラフィティ』は法を犯しているから止めるべきだ」という主張は、なかなか難しいことになる。僕の考察では、「グラフィティ」が無くなれば「落描き」が増殖するだけだと思うからだ。だったら、一定の規律が存在しクオリティも高い「グラフィティ」で埋め尽くされる方がいいのではないだろうか。

市民が同じように感じているかどうかは知らないが、ブラジルでは「グラフィティ」は市民から受け入れられているという。もちろん、すべても市民が許容しているわけでもないし、法律的には犯罪だから逮捕もされる。ただ、日本とはまったく違う感覚で、市民は「グラフィティ」を受け入れているわけだ。

そんな様子を観ながら、僕は、「街はみんなのもの」という捉え方を修正することになった。というか、映画を観て、「ブラジル市民は『街はみんなのもの』と捉えているからこそ『グラフィティ』を許容しているのだろう」と感じたのだ。

しかし日本では、同じような「グラフィティ」はまず許容されないだろう。つまり僕らは、「街はみんなのもの」とは思っていないということだ。

そこで僕は、日本では「街は誰のものでもない」と捉えているのではないか、と考えた。

「街はみんなのもの」と「街は誰のものでもない」は、似ているようでたぶん全然違う。ブラジルで「グラフィティ」が許容されるのは、「街はみんなのものなんだから、誰が何をしたっていいんじゃない」という発想があるからのように思えた。しかし日本では逆で、「街は誰のものでもないんだから、好き勝手やられたら困る」という考えになるのではないだろうか。

今まで「街は誰のもの?」という問いについて考えたことなどなかったのだが、この映画を観て、こんな違いがあるのだろうと実感させられた。この映画はまさに、「街は誰のもの?」という問いを見つけたことがすべての勝因だと感じる。

さて映画では、「なぜ『グラフィティ』を描くのか?」という、グラフィテイロたちの動機にも迫る。これもまた興味深い話だった。

多くのグラフィテイロが似たようなことを言っていた。

『存在したかったんだ。この街に存在したかったんだ。目に見えるようにね』

『グラフィティが助けてくれるんだ。人と関わることに。社会と関わることに』

『マニフェストなんだと思うよ。必要に迫られて生まれたんだ。
もし田舎に生まれていたら、自然に囲まれた生活で、どこかに逃げ場を見つけることが出来ると思う。
でも都会に住んでいると、どこからもプレッシャーがやってくるし、そのプレッシャーから解放されるために描かなきゃならないんだ』

『色を与え、動きを作り、その場に命を与える。
それが、自分がストリートにいたって証なんだ』

そういえば書き忘れてたけど、彼らは自分たちの行為がちゃんと「違法」だともちろん理解していて、しかしその行為が、街やその場所に何かを加えることに繋がっていると考えている。そして、そういう行為が、自分が社会と関わっていくために重要なものなんだ、という風に認識しているのだ。

グラフィティが多い街というのは、貧しい人が多く住む街でもある。日本以上に格差が激しくなっているというブラジルでは、その貧富の差からくる様々な問題が、いわゆるスラムと呼ばれるような街に終結してしまう。

カラフルな絵を描くことで、退屈な灰色を吹き飛ばしていくという分かりやすい理由もあるし、「自分が街・ストリートに対して何か貢献している」という感覚が、彼らの自尊心にも繋がっていくだろう。

「貢献」と書いたのには理由がある。ブラジルでは今、「プロジェット」と呼ばれる、行政などから依頼され報酬を得て街中に絵を描く仕事が増えているのだ。もちろんこれは合法である。合法であるから、グラフィテイロからすれば「グラフィティ」ではなく、「プロジェット」と別の名前で呼んでいるが、違法な行為でしかなかった「グラフィティ」が、行政からも依頼が来るような大きな産業として盛り上がりつつあるのだ。まさにこれは「街への貢献」と呼んでいいだろう。

このような「プロジェット」の存在が、グラフィテイロたちにとっての一種の「成り上がり」としても受け取られている。映画に登場するあるグラフィテイロは、まさにその「プロジェット」のための絵を描いている場面が映し出されるが、ろう者でもある彼はこんな風に言っていた。

【自分のような貧乏で取り残された者でも未来があるって教えてくれた。
俺の人生だって変わったんだから、ってことをみんなに教えてやりたい】

貧乏でも、スプレーと才能でのし上がっていける。それは、後半で出てくるスケボーにしても同じようなところはあるが、とにかく、貧富の差を一気に逆転できるチャンスがあるものという認識にもなっているようだ。

さらに、グラフィティによって、治安が悪かった地域を観光地にまで押し上げた事例も紹介された。「ペコ・ド・バットマン」と呼ばれる地区は、数年前まで街灯もなく、夜は真っ暗、治安も非常に悪い、近づくのが危険だとされていた地域だった。しかしその地区の外壁をグラフィティで埋め尽くすことで、今では観光地となり、土日はとんでもない数の人が押し寄せるスポットに生まれ変わったという。

もちろん、すべてのグラフィティが治安を良くするわけもなく、グラフィティが存在することによって印象が悪くなることもゼロではないはずだが、少なくともブラジルでは、日本人がイメージするような「グラフィティはアンダーグラウンドなもの」という印象はなく、非常にポジティブなものとして受け入れられているようだ。

ちなみに、そのペコ・ド・バットマンでグラフィティを描いていたのは日本人のグラフィテイロで、彼は、「この場所に悪いものが現れないように、という魔除けのような気持ちでグラフィティを描いている」という話をしていた。

さて最後に。監督はグラフィテイロたちに、「ストリート(あるいはグラフィティ)から学んだことは何ですか?」という問いをぶつけるのだが、その中で最も面白かった回答が「手放すこと」だ。

グラフィティは、無許可で描いているのだから、住人に塗り直されているかもしれないし、あるいは火事で消えているかもしれない。ストリートではなんでも起こり得る。グラフィティは、描いている間だけは自分のものだが、描き終わった瞬間から自分のものではなくストリートのものになる、というのがその意味だ。

そう語った人物は、そもそも「所有という概念を信じていない」とも語っていて、「壁の内側は誰かのものだろう。しかし、壁は誰のものでもない」というような言い方もしていた。

今まで「街は誰のもの?」という問いを頭に思い浮かべなかったのは、自分が捉えているのとは異なる発想があるなんて想像もしていなかったからだが、ブラジルでの「グラフィティ」の受け入れられ方を知って考えが変わったし、違法なものを受け入れるべきだろうかという葛藤はありつつも、「グラフィティ」が受け入れられる社会の方がより豊かなようにも感じられた。

「公共」の意味を改めて考えさせられる作品で、面白かった。

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