【映画】「劇場版 荒野に希望の灯をともす」感想・レビュー・解説

一番心がギュッとなったのは、9.11同時多発テロの後、アフガニスタンへの寄付金集めのための講演に奔走する中村哲が抱いていた、アフガニスタンとは別の心配を浮かべる場面だ。

当時、彼の10歳の息子が、悪性の脳腫瘍に掛かり、死期が近かったという。

もはや命を救うことはできないと分かっていた。しかし親として、せめて死ぬ前に遊びに連れ出し、楽しい思い出を作ってあげたいと考えていたという。

しかし彼は、「どうしてもその時間を割いてやることができない」と、講演を優先するのだ。その甲斐あってと言うべきだろう、彼はたった1ヶ月で2億円の寄付金を集めた。

彼の行動の是非を問いたいなどというつもりはない。僕が言いたいのは、「中村哲は、それほどの覚悟でパキスタン・アフガニスタンへの支援を行っていたのだ」ということである。

一人の人間が成した偉業として、中村哲が遺したものほど凄まじいものはなかなか思いつけない。僕は、気候変動の危機を世界中に意識させたグレタ・トゥーンベリも凄い存在だと思うが、やはり中村哲の場合、「実際に人命を救っている」という点が偉大だ。

【平和は戦争以上に積極的な力でなければならない】

【平和とは理念ではなく、現実の力なのだ】

彼は繰り返しこのように語る。前者は、9.11同時多発テロを受けてアメリカ主導でアフガニスタンに報復を行ったことを受けて、「平和」こそ戦争以上に力を持たなければならないと考えての発言だ。そして後者は、アフガニスタンに初めて設立した診療所が武装した住民に襲撃を受けた際のものだ。中村哲は、同じく武器を取って応戦しようとしたスタッフを止め、一切の反撃を禁じた。襲撃の背景にマラリアの大流行があることを理解していた彼は、マラリアの特効薬を大量に入手、薬の配布と巡回診療を行った。「マラリアを治す」という現実的な力を生み出すことこそ、本当の意味での「平和」だという意味である。

その信念は、本当に凄まじい。

中村哲については、報道番組で度々取り上げられるのを目にしていた程度の知識しかない。医師でありながら、干ばつした地域に用水路をゼロから建設したということは知っていたが、日本では元々精神科医だったことや、パキスタンで医療活動を行うことになった経緯、35年にも及ぶ活動で彼がどんな「地獄」を目にしてきたのかなど、知らないことが多かった。

その中でもやはり、中村哲が建設した用水路がもたらした効果には驚かされる。沙漠が、緑の土地に生まれ変わったのだ。

そのビフォーアフターは、テレビでも観たことがある。しかし、何度見ても新鮮な驚きを感じられるほど、信じがたい変化だ。Youtubeの予告編の1:55辺りで、その沙漠から緑地への変化が分かる。是非観てほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=rgc3pSFiZ8s&t=118s

これだけのことを、中村哲というたった1人の人物の「妄想」が成し遂げたのだ。「妄想」と書いたのには訳がある。用水路建設を始める前、中村哲はスタッフを集め「クナール川から13kmに渡る用水路を建設する」という自身の決断について話をしたのだが、誰もそんなことが実現できるとは思わなかったのだ。それも当然だ。なにせ中村哲を始め、スタッフには土木工事の経験などなかった。専門知識を持つ者はいない。重機や機材も満足に存在しない。長年中村哲と共に活動を行ってきたアフガニスタン人のスタッフも、「彼が大丈夫だと言っていたが、実現するとは誰も思っていなかった」と正直に語っていた。

その後中村哲は実際に用水路建設に着手するのだが、それを前にしてスタッフ達に掛けた激励が印象的だった。恐らくこの言葉が、映画のタイトルにも使われているのだと思う。

【私たちはとても小さな組織だ。出来ることは決して多くない。しかし、希望を与えることはできる。用水路建設を通して、皆の心に小さな灯をともそうじゃないか】

メチャクチャかっこいい言葉だと思う。そんな素振りはおくびにも出さなかったが、中村哲自身も、この用水路建設計画がどれほど無謀なものなのか理解していたのだと思う。それは、中村哲の「私たちは絶対に逃げない」という言葉からも感じられる。そう口にした場面では、士気を上げるために、「絶対に用水路を建設する」と言ってもいいと思う。しかし少なくとも映像の中で、そう断言する場面はなかったと思う。彼も、頭の片隅では、もしかしたら実現不可能なのかもしれない、という思いがどこかにあったはずだ。

彼は、非常に誠実な人に見える。だから、どれだけ意気込みを示すために口にした言葉だとしても、結果として嘘になってしまう事態を避けたかったのだと思う。だから、「小さな灯をともそう」という言い方をしたのではないか。僕の勝手な憶測だが、こんな言葉からも、彼の不安・覚悟・誠実さを読み解くことができる。

もう少し、用水路建設の話を続けよう。

中村哲は、まったくの未経験から土木を学び、設計図もすべて自ら引いた。そこに住む者たちで管理がしやすいよう、石を組み上げる工法を採用し、決意を示すために白衣を脱いで最前線に立って建設に立ち向かった。僅かばかりの重機しかなく、ほとんどの作業は人力だ。ただ、前代未聞の干ばつのために村を捨てていた者たちが、用水路の噂を聞きつけたて戻り始めていた。中には、日銭を稼ぐために傭兵やゲリラとなっていた者も、武器を捨て用水路建設に参加したという。時には、アフガニスタンを空爆する連合軍から機銃掃射を受けながら、辛抱強い建設が続けられた。

用水路を掘り進む方は恐らく順調だったのだろうが、取水口が問題だった。クナール川は激流であり、取水口に水の流れを変える堰を作ろうとするのだが、巨石がすぐに流されてしまうのだ。

そこで中村哲は、故郷・福岡に戻った。初めは、誰か専門家にアドバイスを求めるのかと思っていたのだが、そうではなかった。朝倉市にある山田堰を見に行ったのだ。江戸時代に作られたという堰が、幾度かの大洪水を経ても機能している。一体、そこにどんな秘密があるのか調べた中村哲は、江戸時代の設計図からそのヒントを見出すのである。

この経験を受けて中村哲は、

【人は見ようとするものしか見えない】

と言っている。これは、あらゆることに当てはまる真理だと思う。故郷にずっと存在していた山田堰を、中村哲はこれまで「見ていなかった」。存在は知っていたし、視界にも入っていたが、見ようとしていなかったのだ。そして、「堰を自ら作らなければならない」という状況になって始めて山田堰をきちんと見た。そんな風にしてしか、人間は物事を捉えることができないのである、という話だ。

その発想は、9.11同時多発テロを受けて、自衛隊派遣を可能にする審議が行われている国会に呼ばれた際の発言からも読み取れる。彼は、アフガニスタンへの報復について「有害無益」と断言し、「現地で何が起こっているのかを知ってから物事を考えてほしい」と訴えた。アフガニスタンの当時の最大の問題は干ばつだったが、アフガニスタンが干ばつで危機に瀕していることは、日本の報道ではほとんど取り上げられなかったのだ。

これもまた、私たちが「見ない」ことによる現実的なマイナスだと言えるだろう。「問題など存在しない」と感じる時、それは「自分がただ見ていないだけ」かもしれない。彼の「人は見ようとするものしか見えない」という言葉は、様々な場面で意識すべきことだと感じる。

最初に計画し、「マルワリード用水路」と名付けられた用水路に水を通した後、中村哲は

【これまでの20年を振り返って、医師である自分がなんでこんなことをしているんだと、つい笑ってしまいそうになる】

【自分の人生がすべてこのために準備されていたのだ】

と言っていた。彼は決して、自身の功績を誇らない。個人的には、もっと自慢していいと感じる。

さて、しかし中村哲の挑戦は終わらない。その後、様々な村から堰を作ってほしいという依頼が舞い込み、それらに応え続けた。さらにその後、ガンベリ沙漠に水を引くという大事業に取り掛かることになるのだ。それがどれほどの難事業だったかと言うと、中村哲自身が、

【ここが緑地になるのだとしたら、私は神を心から信じよう】

と語るほどだった。

本当に何もない沙漠なのだ。ここを緑地に変えようと発想することが、まず常軌を逸していると感じる。そしてそれをやり遂げてしまうのだから、本当にとんでもないと思う。その後、100年に1度の大洪水が起こったことで堰が崩壊、設計から新たにやり直すことになり、再び山田堰を訪れる。そして最終的に、洪水にも強い堰を完成させるのだから、凄まじいの一言である。

さらに、用水路の流域にモスクまで建てている。アフガニスタンでは、モスクは教育施設でもあるそうで、多くの子どもたちがそこで国語や算数などを学んでいる。スーパーマンだ。

しかしそんな中村哲も、最初から上手くいっていたわけではない。

日本で精神科医をしていた中村哲は、医療が高度化したことで延命治療など新たな手法が生み出され、新たな生命倫理の現実に直面する日常に疲れていた。そんな時、登山スタッフの医療ボランティアとして志願するのだが、そこでパキスタンに住む患者が中村哲に診てもらいたいと集まってきてしまった。有効な薬は隊員のためにとっておかなければならないこともあり、中村哲は酷い状態の患者がいても見捨てざるを得なかったという。

その経験が強烈に残っていたこともあり、パキスタンに医療ボランティアとして赴任ハンセン病患者を診ることになった。彼の記憶に強く残るのが、ハリマという女性患者だ。当時アフガニスタンはソビエトの軍事侵攻にさらされ、アフガニスタンから多くの者が山を超えてパキスタンに難民としてやってきていた。ハリマもそんな1人であり、ハンセン病の病状のせいで、病棟中に悲鳴が轟くほどの苦痛と闘っていた。中村哲は、声を失わせてでも気管切開すべきか、あるいは何もせず肺炎を煩わせ死なせてしまう方がいいのか、長く思い悩んだ。日本で延命治療の是非に悩んでいたのと状況は同じ、いや、それよりも遥かに厳しい状況に置かれていた。

結局中村哲は気管切開を決断する。その後、ハリマのある様子を見て中村哲はホッとしたそうだ。

1989年、10年の戦争が終わったアフガニスタンに入った中村哲は、あまりの疲弊的状況に驚かされる。そして無医地域に診療所の建設を目指し、各地の長老と対話を続ける。「気まぐれに支援して、すぐに去ってしまうのではないか?」という長老の心配に対して中村哲は、

【たとえ私がシンだとしても、この診療所は続けていく覚悟だ】

と言い切る。当時から凄まじい覚悟を持って状況に対峙していたのだ。

その後アフガニスタンを、前代未聞の大干ばつが襲う。病院には患者が溢れ、幼児の多くが犠牲になった。何日も掛けて歩いて診療所にやってきた母親が、診療所に出来た長蛇の列に並んでいる間に、子どもが死亡してしまうなんてことも日常茶飯事だったそうだ。

彼は、水や食料がなければ、どれだけ抗生物質を与えたところで焼け石だと考えた。「病気以前の問題だ」。そこで。1年に660もの井戸を掘る。しかしその井戸もすぐに干上がってしまう。どうすればいいのか。

そういう中で起こったのが9.11同時多発テロだった。これによりアフガニスタンはさらに厳しい状況に置かれることになった。そして最終的に中村哲は、用水路建設にアフガニスタンの未来を託す決断をするのだ。

2019年、中村哲は何者かの凶弾に倒れた。映画では触れられていなかったが、当時ニュースを見ていて驚いたことがある。それは、「中村哲を襲撃したのは我々ではない」という声明がタリバンから出されていたことだ。これはつまり、「中村哲を襲撃した」と思われるとアフガニスタンでの立場が悪くなるということであり、それだけ中村哲の存在感が大きかったことを意味する。タリバンが「やっていない」という声明を出さなければならないほどの、誰もが認める功績を中村哲は成し遂げたのだ。

2022年現在、アフガニスタンは再び大干ばつに見舞われているという。1970万人が飢餓に陥っており、「世界最悪の人道危機」とも称されているそうだ。確かに、ロシアのウクライナ侵攻も信じがたい現実だが、東京都の人口よりも遥かに多い人達が危機に瀕している現実もまた凄まじいものだと言えるだろう。

中村哲なき世界で、僕たちには何ができるのか、考えなければならない。

この記事が参加している募集

サポートいただけると励みになります!