【映画】「メイド・イン・バングラデシュ」感想・レビュー・解説

ある場面で、バングラデシュの縫製工場で働く女性従業員の給料に言及される場面がある。

労働者の権利を守る団体に所属する女性が主人公のシムに、「このTシャツを毎月どれぐらい縫うの?」と聞く。シムは「1650枚」と答える。それに対して団体の女性が、「あなたたちの月収は、そのTシャツ2、3枚分ぐらいよ」と答えるのだ。

ちょっと正確に覚えておらず、「ひと月1650枚」ではなく「1日1650枚」だったかもしれない。あと、「Tシャツ2、3枚分」というのも、そのTシャツの店頭販売価格に換算した値段だと思うのだが、ちゃんとは分からない。しかしいずれにしても、かなりの低賃金で働かされていることが分かるだろう。

しかも、給料の未払いが発生したり、残業代が支払われなかったりと、働く女性たちの状況は厳しい。

バングラデシュといえば、2013年の縫製工場のビル崩落事故が記憶に新しい。1000人以上が死亡する、ファッション産業の汚点とも言うべき事故だった。
(映画の中ではこのようなバングラデシュの現状の説明があるわけではない。この記事では、https://www.fashionsnap.com/article/rana-plaza-collapse-5years/の記述も参考にしながら書いていく)

バングラデシュは、世界のファストファッションブランドの工場がひしめき合っていることで知られており、アパレル産業では世界トップクラスのシェアを誇る。実にバングラデシュの輸出の80%がアパレルだそうだ。「H&M」「ユニクロ」「ZARA」「GAP」など、様々なメーカーがバングラデシュの工場に縫製などを委託している。

そして、そんな縫製工場で働く女性を描くのがこの映画なのだ。僕たちが普段当たり前のように来ている服を作っている女性たちの問題であり、決して他人事ではない。

映画の最後に、「この物語は、ダリヤ・アクター・ドリの実話に基づく」と表記された。映画では「シム」という名前で登場する女性に、モデルがいるというわけだ。そしてシムはこの映画の中で何をしようとしているかといえば、「工場内に労働組合を作ろうとしている」のである。

「ただそれだけの物語だ」と言ってしまえばそれまでだが、「『労働組合を作る』というだけのことがどれほど大変なのか」を実感させる物語でもある。

そもそもシムにしても、「労働組合」などというものが存在することさえ知らなかった。きっかけは、働いていた工場で起こった火災にある。

13、4歳の頃に義母の勧めで40歳の男性と結婚させられそうになったシムは、父親の財布を奪って逃げ、バングラデシュの首都ダッカへとやってきた。靴工場で働いたが薬品の臭いがきつくて辞め、家政婦になったが暴力を受け、それから縫製工場で働くことになった。今働いている工場は3軒目だ。

そしてその工場で火事が起こる。給料を払ってもらおうと工場へ向かうシムだが、入り口に警備員がいて通してくれない。悪態をついて帰ろうとしたところで、労働組合支援の団体で働くナシムに声を掛けられたのだ。そこでシムは初めて「労働組合」の存在を知る。法律を学び、ナシムの支援も得ながら労働組合設立のために動くことに決めた。

何故なら、誰もが劣悪な環境で働いているからだ。縫製工場の労働者の80%は女性である。それについては、「経営者は女性の方が支配しやすく、賃金も払わなくていいと考えているから」と映画の中で説明された。安全管理にも問題があるし、気に食わなければすぐに解雇される。「労働者の権利」などまったく存在しないに等しい環境なのだ。

しかし、労働組合設立のハードルは高い。全従業員の3割の署名が必要なのだが、経営者側は労働組合設立の動きを常に監視していて、表立って署名を集められない。ある時など経営者が、「労働組合のことなんか考えるなよ。労働組合ができた工場はどこも閉鎖してる。ここが閉鎖してもいいのか?」と脅しをかけてくる。

また、夫の存在もややこしい。そもそも、シムの夫は無職で、だからシムが働いて生計を立てなければならない。夫も当初は、自身のそんな立場を理解して、シムに対して強くは出て来ない。それでも、「労働組合なんか止めとけ。警察に捕まるぞ」と忠告されてしまう。さらに、夫は仕事が見つかるや、労働組合の設立に奮闘するシムの気持ちなど無視して、「今は俺が働いてるんだから、お前は仕事を辞めろよ」と言ってくる。なかなかのクズ夫だが、しかしやはり、夫を無視して話を進めるのも難しい。

しかし何よりもシムにとって辛かったのは、自分が労働組合設立のために動くことで、同僚たちに様々な不利益が生じてしまうことだろう。それらの不利益に、シムが直接的に責任があるわけではないが(どう考えても、工場で起こる問題のほぼすべては経営側に問題がある)、しかし間接的にシムが関わっていることは確かだし、同僚も、経営者に怒りをぶつけられない分、シムに苛立ちを向けてしまう。

シムは、もちろん自分のためでもありましたが、間違いなく同僚たちのために立ち上がりました。経営者や夫に理解されなくても、せめて同僚には味方でいてほしかったでしょう。それすらもままならず、決して孤独だったわけではありませんが、思うようには事が進まずに、しんどい思いをすることになってしまいます。

誰もが「間違っている」と感じるでしょう。しかし、その「間違っている」土台の上に、僕たちの「安価で便利な生活」が成り立っているのも事実なわけです。

僕たちはもう、今の「安価で便利な生活」を手放せません。自分たちの日常を”犠牲”にしてまで、遠い国の女性たちを助けようとする行動は、なかなか長続きしないだろうと思います。じゃあどうすればいいのかはちゃんと結論があるわけではありませんが、普段買っている服に限らず、「これは一体どこでどのように作られているのだろうか?」と意識してみることが大事なのではないかと思う。

僕たちは、何か惨事が起こった時にしか「悲劇」に目を向けない。しかし実際には、「悲劇」は日常の中にある。2013年の縫製工場ビル崩壊事故ももちろん「悲劇」だが、それ以上の「悲劇」は実は、そこで普段から働いている女性たちの「いつもの労働」にこそあるというわけだ。

もちろん、世界のすべての「悲劇」を理解し、それに対して行動を起こすのは不可能だ。けれど、せめて「想像する」ぐらいの時間は取ってみてもいいと思う。

僕がよく考えることがある。それは、世の中のありとあらゆる「悲劇」はもう、「それってかっこ悪い」という言葉で解決していくしかないんじゃないか、と。SDGsやESG投資が広まり始めているのも、根底に「環境破壊や社会問題を無視する企業ってかっこ悪い」という感覚があるからだと僕は思っている。

すべての問題を「それってかっこ悪い」で解決するのは不可能だとしても、多くの問題にとって抑止力となると思うし、そういう感覚的な影響力が結局一番効くということもあると思っている。

そして、「かっこ悪い」と感じるためには、まず「知る」ことが重要だ。知らなければ、「かっこ悪い」と感じることもできなくなる。

だから、まず想像してみる、そして気が向いたら知ろうとしてみる。多くの人がそういう行動を取ることで、「それってかっこ悪いんじゃね?」という感覚が積み上がっていくのではないか。

バングラデシュの労働条件の改善には、世界のアパレルブランドが協力して改善に乗り出しているそうだ。しかしどうしたって、「利益」のことを考えれば、仕事の「上流」に位置する存在が「下流」の労働条件を変えるのは難しいだろう。Apple社が、「世界中のサプライヤー企業に、100%自然エネルギーを使用するように通達した」というニュースは話題になったし、これは「上流」企業による「下流」企業の良い方向の改革だと感じるが、すべての企業がApple社のようには振る舞えないだろう。

だから結局、消費者が変わる以外には解決の道はない。

少し話は変わるが、ロシアによるウクライナ侵攻に関係するニュースで、「色んなものの値段が上がって大変だ」というものがある。確かにその通りだと思うが、そもそもここには、「今後、ウクライナへ侵攻したようなロシアと経済活動を続けていくのか?」という視点が抜け落ちていて気持ち悪いと感じてしまう。

もちろん、エネルギー関連など、文明生活の維持にどうしても不可欠で、日本では自給が不可能なものもあるので、ありとあらゆる面でロシアとの経済活動を止めることはできないだろう。しかし、どうしてもそれがなければ生活が成り立たない、というものでなければ、もはや僕たちは「ロシアから何かを輸入することを諦めること」を前提とした未来を想定しなければならないと思う。「物の値段が上がって大変だ」ではなく、「ロシア産のものなんか要らない」ぐらいの気持ちを持つことが、いち消費者としてぐらいしか今回の事態に関われない僕らのような一般市民ができる”闘い方”ではないのか、と思う。

僕たち消費者が、「ウクライナに侵攻したロシア産でも、安い方がいいよね」「バングラデシュの人たちを酷い労働環境で働かせて作ったTシャツでも安い方がいいよね」と思っている限り、おそらく問題は一生解決しない。僕ら消費者は、「そんなもの意地でも買わない」というカードを切るぐらいしか社会に抵抗できないのだから。

もちろん、こんな風に書いていても、僕はユニクロで服を買うし、ロシアから輸入したかもしれない海産物を使った寿司を食べたりもするだろう。ただ、企業なり日本という国家なりが「モノの値段は上がるけど、◯◯で作られた△△は輸入しません」と決めるなら、それは素直に受け入れようと思っている。

僕にできるのはきっとそれぐらいのことだろう。なかなか無力だが、しかし、やはりこの映画のような現実を知ってしまうと、何も知らなかった時のようにモノを購入するのは難しくなる。

改めてそんな風に考えさせてくれた映画だ。

少しだけ映画の話に戻そう。映画としては、役者の演技が優れているわけでもないし、ストーリー上の盛り上がりがあるわけでもなく、平凡と言えば平凡だ。ただ、個人的に興味深いと感じたのは、「ドキュメンタリーっぽい感じの映像がちょいちょい組み込まれること」だ。屋外での場面でよくそう感じた。恐らく、「今から映画の撮影をするんで皆さんちょっとカメラに映らないようにお願いします」みたいなことをやらず、いつもの街中を女優に歩かせて、その様子をカメラで撮っているからそう見えるんだと思う。だから、屋内のシーンはフィクションっぽいけど、屋外のシーンはドキュメンタリーっぽいという、ちぐはぐは映像になっている。

そして個人的には、これってなかなか面白いなと感じた。「剥き出しのリアル」という感じがするのだ。映画でもテレビ番組でも時々、「フェイクドキュメンタリー」みたいな、フィクションなんだけどドキュメンタリーっぽく撮ってる映像があったりするが、ちょっとそれに近い。さらにそれを、バングラデシュという、首都ダッカなのに道端をニワトリが歩いているような発展途上国でやるから、余計に「剥き出し感」が強くなるように感じた。

フィクションの映画としてはちょっと高く評価することは難しいが、「ある種のドキュメンタリー映画」と捉えれば、映し出される事実に圧倒されるだろう。自分たちの日常生活が、どれほど「間違っている」土台の上に成立しているのかを実感できる作品でもある。


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