演劇の面白さがちゃんと、やっとわかった話
『はっぴいえんど を教えて』
3月31日に無事に終了しました。
2ヶ月ほどの稽古期間。
これまでからは想像もできないほど濃密な稽古期間。
仕事が終わって、20時くらいから22時くらいまでトライする日々。
文字だけ見るとかなりやばい。
ただこの期間の中で、
演劇がなぜ面白いのかという理由が言葉にできるようになった気がする。
「梢さんの、演劇が面白いと思うところってなんですか?」
何かの取材で聞かれる度にしっくりくる返しがあまりできてこなかった。
やっとわかった。
◉常に自己理解と他者理解であること
◉コミュニケーションと対話の表現であること
常に自己理解と他者理解であること
今回取り組んだ題材は、自分ではない誰かを演じるというもの。
私の作風が常に等身大であることもあり、ほぼ初めてくらいの感覚。
普段の自分であれば、この身体の使い方、反応の仕方
だけど、他人であればどうなるのか。
この他者について考える時間は、他者理解に似ている気がしていて。他者を投影することで、相対的に自分の癖が見えてきたり。
今回で行けば、
(私の役/年上彼女の設定)25→26
(相手役/年下彼氏の設定)30→24
あまりにも年上彼女に見えないというのが最初のハードルだった。
確かに私は年上と接する機会が多く、自身が年下である前提で振る舞っていたことがわかった。意図しているものの、無意識でやっているもの。
「年上の余裕と落ち着きがないぞ!」
と言われても、なんだそりゃ?!わからんぞ!!
という感じだったが、
実際に年上彼女年下彼氏の友人と一緒にくら寿司行ったり(奇妙)、
姿勢を直して、話し方(発語?)を変えてみたり。
なんなら服装も変えてみたりした。すると段々年齢差が埋まってきたり。
と思えば、
「それは梢だから!」
と叱咤されることもしばしば。
だから自分の反応とか身体の癖がすごく見えた。
リアクションとして常にどこかが跳ねているとか。重心が基本下(根っこが常に貼ってるみたいな)だとか。そういう発見もとにかく面白かった。
他の人においても、その人の癖を見る中で、
普段やこれまでの人生が垣間見えることも。
そんなことが赤裸々に出てしまうなんてなんてセンシティブな芸術なんだ。
役に成り切る、降ろすなんていう言い方もあるけど、そういう簡単な言葉とは違う寄り添いがあるような気がした。
コミュニケーションと対話の表現であること
独白ではないシーンは常に会話で、誰かと会話をする。
相手の話し方や反応、目を見ていると、
少しの違いで、自分の出方が変化するのがわかる。
というかせざるを得ないに近い。
これまでの私はどちらかというと、変わらない方だった。
演技や脚本理解が記号的になればなるほど、変わらなくなるもの。
記号的な演技だったんだなと。
「あ、そういうことか」というタイミングがいくつもあった。
(ただ相手がめちゃうまかった)
この変化がすごく楽しい。
何度も繰り返すシーンだとしても、そこにコミュニケーションが存在するような。常に互いにそこにある空気を探り合っているような感覚。
演技だけじゃなくて、劇作においても常に対話を求められるのが演劇。
「ここについてはこう読み取る」
「自分はこう思う、見える」
を常に擦り合わせる劇作の場。
誰かと価値観を擦り合わせていくのって、本来であればかなりデリケート話で、何度もするようなことって起きない。
それが常に求められるのって、集団創作でしか成り立たないからこそだと思う。
これまで感じていた演劇の面白さは、演劇にフォーカスを当てているというより、そこに付随してくるエピソードや、誰と創作するかみたいな部分に良さを感じていた気がする。
今回の稽古期間を通して、演劇本来の面白さに常に触れていた気がする。
演劇、面白かった。
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