限界画定と無際限
文芸批評時評・11月 中沢忠之
先に掲載された文芸時評(11月)で荒木優太が、桜庭鴻巣論争も、柳美里・岸田國士戯曲賞選評問題も、出禁ラーメン評論家の「おじさん構文」も、小田嶋隆の綿野恵太批判も話題にしなかったからということで、これらすべて文芸批評時評にまかせたというのだけれど、残念ながらどれも話題にできる能力がない。そこそこの割合で私と同類のオッサンがからんでいることは気になるが、スルーしたい。
ただ一点、私の前回の文芸批評時評(9月)で言及した桜庭鴻巣論争について、今回話したいテーマの観点から少しふれておきたい。すでに指摘されていることだけれど、桜庭一樹はメディアの〈差〉を強く意識していたという点である。桜庭にとって文芸誌には(推測させる程度だったにせよ)書けた内容を、鴻巣が強調(桜庭にとっては誤記)して書いたメディアが新聞だった点を問題視していた。地方の、文学を読まないような読者にも届く朝日新聞というメディアの特性を意識してのことだ。ここに見られる〈差〉は、文芸誌と全国紙のメディア――ここにSNSもくわわる――の間だけに還元できない。地方と都会、一般人とリズールの間にも区画がある。また桜庭はもとより純文学とエンタメのジャンルの〈差〉を強く意識する作家だが、今回話題になった「少女を埋める」の続篇「キメラ――「少女を埋める」のそれから」(『文學界』11月)では、「向こう側らしき場所にいる文芸的なサロンの人たち」との間に友敵の区分を明確化していた。いわば桜庭の表現はつねにいたるところに限界画定をするのである。たとえば、前回も書いたことだが、鴻巣解釈の反証として発表された桜庭の自作解説を参照してみよう。桜庭は、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と解説したのだが、この自作解説は、なるべくコンテクストフリーに読んでみると不自然に読める。実作を読んだ人にはわかるはずだ。ただし、これを〈新聞だけを読むような地方の人たち〉に対するダイレクト・メッセージとして限定してみたとき、伝えたい意味に不自然さはない。むしろ一点の曇りもないクリアなメッセージである。
こうしてみると、一方の鴻巣友季子にはそういったスタンスが見られないことに気付く。限界画定よりも、自分の表現(「ケア」のテーマ)が普遍的なものにリーチするということに対する信頼があるように見えるのである。桜庭は、敵対視する「文芸的なサロンの人たち」「純文学と批評のサロン」について「「ロラン・バルト」「テクスト論」「作者の死」「読みはひらかれている」」等々の文学語録を当てはめているが、この「読みはひらかれている」的な普遍性を桜庭は疑っている。純文学は、様々な文学ジャンルのうちの一つにすぎないと指摘されて久しいが、社会問題や実存的な問いを通して普遍的なものにリーチしようとする発想がいまだに陰に陽にあるのだろう。それはもちろん悪いことではない。いずれにせよ、桜庭鴻巣論争は、限界画定と普遍性志向の対立・すれ違いだったと解釈することもできるわけだ。蛇足だが、言語学的には、語用論と構造主義言語学の対立と言い換えられる。発話相手を具体化(限界画定)した上でそのコンテクストに見合った表現を試みる立場と、コンテクストに左右されない普遍的なコードを前提にした立場との対立である。
今月フィーバーした話題は「聞き書き」だろう。『文藝』冬季号が特集「聞き書き、だからこそ」を組み(前の秋季号では池澤夏樹といとうせいこうによる対談「福島・水俣・石牟礼道子――社会における作家の役割とは」がある)、『文學界』11月号では岸政彦の「生活史」をめぐる対談が掲載されている。前史として六月には、岩波書店から『アレクシエーヴィチとの対話』が刊行、九月に筑摩書房から『東京の生活史』が刊行されていた。前者は、聞き書きの手法を文学に取り入れる作家の評論集であり、後者は同手法を社会学に取り入れた岸政彦監修の刊行物である。「聞き書き」の文学における重要性と理論的射程についてはすでに木村朗子がいくつかの評論――「震災後文学論2021――あたらしい文学のほうへ」(『すばる』4月号)など――で発信している。詳細は文芸批評時評の9月回を参照してほしい。
なかでも『文藝』の「聞き書き」特集は内容がとても充実していた。アレクシエーヴィッチへのインタビュー、高橋源一郎と斎藤真理子の対談、いとうせいこうと岸政彦の対談、それに創作・論考・ブックガイドとテンコ盛りである。不勉強で知らなかったのだが、斎藤真理子の個人史から語られる話には惹かれるものがあり、もっと話を聞いてみたいと思った。ちなみに、『文藝』は今号から文芸誌初の電子版を開始している。kindleなどの電子書籍リーダーだと雑誌はどうしても読みにくさを感じるが、チャレンジ精神は応援したい。
ところで上記二つの「聞き書き」をめぐる対談を読むと、ちょっとした立場の違いがあることに気付く。高橋+斎藤対談は、聞き手の立場(編集能力など)を重要視している。いわば語り手はつねにすでに聞き手であるという間テクスト的な観点から「聞き書き」をとらえようとするスタンスである。だから、太宰治の『女生徒』や谷崎潤一郎の『細雪』まで「聞き書き」の一種だといえてしまう。このポストモダン的ともいえるスタンス――語りはひらかれている!――は従来の文学観からさほど遠くはなく、間テクスト的な相対化はむしろ作者の卓越化――有能な言語収集家――をもたらす側面があるだろう。
他方、いとう+岸対談は、とくに岸にその傾向が見られるのだが、聞き手の存在感を極力ゼロ度に近付けようとする意図がある。たとえば高橋+斎藤対談では、聞き手によって引き出される語りが変化するということが強調されるが、岸は、どんなに有能な聞き手でも語られる内容に変化はないだろうとさえいってのける。ここにも対立が見られる。桜庭鴻巣論争とは違った意味だが、高橋+斎藤対談は文学的な限界画定を施し、いとう+岸対談はそれを解除しようとするわけだ。文学にとって厄介なのはもちろん後者の無際限さである。なにしろそれはもう文学である必要はないのだから。というかそれはなにものですらない、あえていえば不気味なものである。無数の語りの声の前で、聞き手は黙ってそれらを書き留めていればよい。もちろんそれは文学に対する挑発の響きを持つわけで――私たちは怒ってよい――、それに対して文学はいかなる有能な聞き手を発明するだろうか。私はひとまずジル・ドゥルーズの『マゾッホとサド』を手引きにしたい。「文学は、何に貢献するであろうか?」
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