見出し画像

干さオレ~三軒茶屋逢瀬篇~(第一一回)

文芸時評5月・荒木優太

 ハリー・リーバーマン『アダルトグッズの文化史』(福井昌子訳、作品社)を読んでいて次のことを知った。一九六六年、ウィリアム・マスターズとバージニア・ジョンソンの『人間の性反応』が発表され、女性の性的快楽に関して大きな発見がもたらされた。つまり、フロイトの主張とは反対に、女性の絶頂にとって肝要な器官はヴァギナではなくクリトリスで、しかもマスターベーションしているあいだ女性は何回も絶頂に達することができるというのだ。快楽目的ならば男の身体は完璧に無用の長物だった。
 最新の性科学が、女性の快楽についてなにをどう教えているかは知らない。が、これを読みながら小池昌代『魂ぎれ』(群像)のことを考えた。というのも、同作の主人公のわか子は末尾でマスターベーションをして眠りにつくからだ。引用してみよう。
「わか子は今、自分の手をパンツのなかに入れて、性器をてのひらで温めてみる。自分の手なのに、他人の手のようなそれは、わか子のわずかに残った欲望をなだめてくれる。さまざまな男たちを自分のうちに招く。妄想の男たちは、Fのような下衆でなく、どの人も真面目で勤勉である。妄想なのだから、いくらでもみだらで逸脱した相手を選んでいいのに、わか子が思い描く男たちは、なぜか皆、純粋で融の面影を引いている」(八六頁)
 『魂ぎれ』は『群像』誌に掲載されてきた連作的なシリーズのなかの一編で、五〇近くの中年女が空き家の管理アルバイトをはじめる『Cloud On the 空き家』(二〇二三年二月号)、家が燃えて放火犯疑惑をかけられる『うどの貴人』(二〇二三年六月号)、昔の恋人のFを思い出す『乳母の恋』(二〇二三年一一月号)を経て成立している。いずれも和歌のポエジーの奔出が先行した反リアリスティックな小説で、この種のテクストを評者はあまり好まず、実際『うどの貴人』と『乳母の恋』は緊張感を欠いて余計だとも考える。ここに描かれたマスターベーションもたぶんに幻想化されているという指摘もあるかもしれない。その上で注目してみたいのは、ペニスは不要、なのに「面影」は、しかも特定の人を核にした「面影」は必要であった、というこの一事なのである。
 わか子はこの直後、組んだ指が癒着してほぐれないという悪夢を見る。本文に照らすと、ここには草木の比喩が活きている。なぜならば、和歌のなかで用いられる「むすぼほれ」(結ぼほれ)とは草木が絡み合ってほどけにくいありようを指し、転じて、心のなかのわだかまりにもあてがわれるようになったからだ。わか子は「むすぼほれ」に、つまりは、わだかまりそのものになっていく。茎的剛性を保てず、折れ曲がったり寄りかかったり巻きついたりして自他の区別を有耶無耶にしてしまうのは、「面影」への依存に起因しているのではないか。手を他人の手として使える重合の想像力に根拠づけられているのではないか。読みさしの金塚貞文『オナニスムの秩序』から引いておけば、「手とか、物などによる性感帯への摩擦刺激を、自慰する人は、意味のない物理的な力として経験しているわけではなく、それを性的な空想世界の使者として経験しているのである」。繰り返せば、ペニスは不要かもしれないが、それでも男のイメージは必須である。
 ところで、AV新法施行から二年が経ち、その見直しが業界から叫ばれている。具体的には三つの主張に要約できるようだ。第一に法律の名称にある「被害」という語の変更。第二に契約から撮影、撮影から公表の期間の法的な縛りを出演者全員の同意の条件のもとゆるめる柔軟化。最後に監督官庁によるAV業界の実態調査である。とかく場外乱闘ばかりが注目されている法案であるが、この修正案自体は、ラディカルな廃絶論者を別にすればそこまで常識から逸脱しているようにはみえない。仁村ヒトシを発起人にした都内のデモ活動も注目を浴びはしたが、現状、大きな軌道修正が予定されているわけではなさそうだ。
 男のイメージ好きにもほとほと困ったものだ、と試しに書いてみる。が、これは正確ではなくて、『魂ぎれ』を読んだあとならば、人間のイメージ好きには困ったものだと書き直すのが本当だと思う。なにが楽しくて喋る馬に乗ったり死人とセックスせにゃならんのか。想像に淫する悪癖がなければ、性暴力や各種ハラスメントに手を染める衝動も大幅に縮減できたに違いない。詩人追放論者のプラトンが、もしいま生きていたら強力なAV規制論者としてTwitterで暴れていたかもしれない、などと想像してみたりする。笑える。
 AVが死んでもいいし、文学が死んでもいいし、要するになんでもいいしどうでもいいわけだが、わか子が融(とおる)という特定の男性を核にしながらも「さまざまな男たち」を召喚して自慰にふけったことには立ち止まらざるを得ない。かなり年の離れた、崩し字の師匠でもあったF(権力勾配!)に裏切られて、人間嫌いを貫いていたにも拘らず、実子であってもおかしくない大学生の融に年不相応の恋心と性欲を覚える女性(権力勾配!)が、男のヴァリエーション、差分やブレを愉しんでいる。「招く」とある。まるで女性の身体が一個の家であるかのようだ。家父長的だろうか? そうかもしれない。実際、茎をもった男性の身体だって、さまざまな女たちを招けるのだ。そして燃える。家が燃える。いや、反対に家をちゃんと燃やすには家族ではないたくさんの他人を呼ばなければならないというべきなのかもしれない。
 仮にAV産業が潰え、文学が消滅したとしても、詠み人知らずの歌が人の口を伝って生き長らえるように、イメージを提供する仕事は決してなくならないだろうという妙な確信がある。ペニスもヴァギナもイメージに比べればさほどエロティックではない。だからこそあんなにもイメージを怖がるのだ。むしろイメージこそが生命の本体であり、人の身体はイメージが通過するための仮宿なのかもしれないとすら。由緒正しい和歌を踏んでもそんな倒錯の世界に跳べるのだ、というのが本作で得たもっとも大きな収穫であった。
 どうでもいい種明かし。今月は次のような順序で読んだ。奥泉光『印地打ち』(小説TRIPPER)は石投げる話。志川節子『昔日の光』は昔の話。大原鉄平『森は盗む』はなんで盗癖があったのか謎。鈴木結生『人にはどれほどの本がいるか』は大澤聡が好きそう。向坂くじら『いなくなくならなくならないで』(文藝)は画面を指ささないファニーゲームみたいなもの。桜庭一樹×斜線堂有紀『桜が咲いた日、七つの条件』は斜線堂のほうがおもろい。遠野遥『AU』は雰囲気で押すタイプ。山下紘加『わたしは、』は特集に対する模範解答って感じですな(いい意味ではない)。紗倉まな『やっぱりなしでもいいですか』はマッチングミスからはじめるマッチング物語でまあまあ。樋口恭介『あなたがYouなら私はI、そうでないなら何もない』は同情塔ほど炎上してないので世の中不条理だなと思わせる味わい深い作品。早助よう子『天一坊婚々譚』はラーメン屋の話ではない。朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(新潮)はいいかげん芥川賞候補ぐらいにはいれてやれよといいたくなる程度には力作。今村夏子『貯金箱』は後述よりもこっちが好き。旗原理沙子『私は無人島』(文學界)は中絶と無人島イメージとの結びつきがぴんとこなかった。福海隆『日曜日(付随する19枚のパルプ)』はPCの茶化し方において非常に『文學界』っぽい新人賞作だがそろそろ飽きられてきそうだなという直観もある。市川沙央『オフィーリア23号』はインテリ好みのポルノ撮影譚で面白く読んだが、もう少し固有名を減らせないものか、「クロポトキン」とか。青野暦『草雲雀日記抄』は雰囲気力が高くいかにも評者担当外のテクストだがセックスの描写がよくて救われた。今村夏子『三影電機工業株式会社社員寮しらかば』(群像)は前述よりもこっちが嫌い。片瀬チヲル『かわいい獣』はリスこえぇ~って話。くどうれいん『背』は検索結果をこっちに見せてくるんじゃねえよばかって話。小池昌代『魂ぎれ』は良い。高瀬準子『いくつも数える』は齢の差カップルにドン引きしちゃう問題。武塙麻衣子『とうらい』ははじまったなと思ったらいつのまにか終わっていた。長野まゆみ『もう森へ行かない』は墓参りの話だがよくわからん。砂川文次『オートマタ・シティ』は『臆病な都市』再説といったところだが綺麗が過ぎるという評価もあるかもしれない。山内マリコ『ペンと絵封筒』(すばる)は大正時代に生きた女絵描きの書簡体小説。水原涼『台風一過』は相互にあまり関係してそうもない掌編三編構成。
 次回、ついに最終回。

▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。近刊に『サークル有害論―なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?