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宗教と文学――新連載「再魔術化するテクスト」のお知らせ

 今年の7月8日、山上徹也が安倍晋三元総理を銃撃し、殺害におよぶ事件があった。元総理が関与した旧統一教会(世界平和統一家庭連合)によって自身の家族を破壊されたことが、犯行の動機にあるという。連日の報道によってそのことが明らかにされるにしたがって、宗教、とりわけカルトの問題が問われはじめている。すっかり忘れ去られようとしているが、そもそも文学は、近代以降〈宗教〉と深い関係にあった。世界宗教としてのキリスト教の受容史、天皇制との様々な距離の取り方、そしてカルトの問題。SNSでは、今村夏子の『星の子』や村上春樹の『1Q84』があげられ、宗教2世の被害者視点のテーマが話題になったが、他にも阿部和重の神町三部作は、仕掛ける側の視点からカルトの問題を扱っていた。それは被害者ポジションのみならず、加害者(の加担者)からも語られてきたし、信仰(内面告白)の問題でもあり、運動の問題でもあったのだ。時代をさらにさかのぼるなら、大江健三郎、中上健次、遠藤周作など文学と宗教の関係にはキリがない。また見方を変えれば、文学や芸術に影響を与えてきたコミュニズムやアナキズム――共産党や「新しき村」など――も宗教と無縁ではないだろう。リゼット・ゲーパルトの『現代日本のスピリチュアリティ―文学・思想にみる新霊性文化』にならって、スピリチュアリティも宗教の問題にくわえてよいのであれば、吉本ばななをはじめ、それと関わりのない作家を見つける方が苦労するほどである。
 このようにイメージ連鎖のインフレを起こすのは文学の悪い癖ではあるが、理性的な振る舞いでは御することのできないイメージに翻弄される主体の有様を事細かに描写してきたのも文学である。宗教と文学はそのようないわくいいがたい事態のモチーフの一つであろう。
 いうまでもなく宗教の問題を考える上で文学に何らかの特権性があるわけではない。とはいえ、歴史的に宗教との関わりが文学には抜きがたくあるのだから、文学の側からこの怪しい問題を考えてみるのも悪くないだろう。寄稿していただいたのは作家・批評家の倉数茂である。彼は小説のデビュー作となる『黒揚羽の夏』(2011・7)以来、ストーリーの要所に幻想性――そこにはカルト的な影が揺らめきもする――を必ず取り込んできた作家である。それは、社会的なテーマを強く押し出した近作『名もなき王国』(2018・8)『忘れられたその場所で、』(2021・5)に至るまで一貫している。『あがない』(2020・6)では、その表題作において依存症をモチーフとしていた。一方、評論の『私自身であろうとする衝動―関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(2011・9)では、「美的アナキズム」をキーワードに、資本制に包摂された社会に対して批判的な作家たちの表現・運動に注目している。そこで倉数は、日本浪曼派(保田與重郎)や民藝運動(柳宗悦)にもフォーカスを当てているが、これら政治運動や芸術運動は宗教の問題にも置き換えられうるだろう。旧統一教会にも見られる通り、カルトは何かしらのカウンターでもあるからだ。その点、『私自身であろうとする衝動』の終章「美的アナキズムの行方」の諸問題を、長期連載となる「再魔術化するテクスト」は引き継いでいるようにも読める。
 文学は宗教に対して時に批判をし、時に魅了されてきた。みずから内面告白という性格をもち、連帯的な運動を組織する以上、似ているのもやむをえないが、それを批判する散文なる性格をももちあわせている。事態は入り組んでいる。それこそ文学の特権とあえて見なしてみたい。作家であり批評家である著者がいかなるスタンスから宗教と文学の問題にアプローチするのか楽しみである。

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