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いま、〈声〉の時代から逸脱する——新たな上演のために

文芸批評時評・12月 左藤青

「今年の新人賞は数年に一度の豊作」

などと、偶然にも11月18日に解禁されたボジョレー・ヌーヴォーさながらの大袈裟すぎるキャッチコピーから書き始めてみてもいいかもしれない。なにしろ11月は、「新人」を強く意識させる月だったからだ。

文藝新人賞野間文芸新人賞群像新人評論賞といった新人賞が「解禁」されたのはいうまでもなく、また、5月に文學界新人賞受賞の九段理江、昨年11月に新潮新人賞を受賞した小池水音の受賞後第一作が掲載されたことも、紙面のフレッシュさを強く意識させる要因となっている(なお今年度の新潮新人賞は、先月発表されている)。

さて本稿は「文芸批評時評」なので各創作の新人賞に深く言及することはないが、先に、文藝新人賞を受賞した澤大知「眼球達磨式」に少しだけ言及しておきたい。これは文学オンチの私なりに、久しぶりに期待を煽られるテクストだった。私が取り立てて言葉を加えるのも無粋だが(私が書くまでもなく、『文藝』紙面上に掲載された磯崎憲一郎や穂村弘の選評、さらに村田沙耶香と筆者の対談によってほぼその輪郭が明らかにされている)、しかしあえて短評しておくと、これは「物自体」のファンタジック・ホラーである。

澤は「物」を、その唯物的・機械的な性質を残しながらも、ある種過剰に擬人化するという手法で、「人」の論理を超えたフィクションをリアルな形で出来させている。「物」が「物」の領域を超え人間の現実をどこまでも振り回していくといったこのドラマは現代的でテクノロジックだが、流行の「ポスト・ヒューマン」な凡百の言説・作品を超えており、同様の発想に基づいた作品の中でも、独特のユーモアを獲得している。

実際、このユーモアは、穂村が指摘するように、この主人公がそのカオスを「条理」化しようとする努力をやめはしないところに存している。どころか、その努力する様こそが、人間本性に根ざした滑稽さをもって執拗に描かれているのだ。

人間の受動性が真に暴かれるのは、人間を「物」や「統計」に即座に還元することで、自意識や実存や倫理を問題の外に置き、かえって密かにエゴを「聖地」化するような、弛緩した言説においてではない。根源的な受動性は、むしろ「物」との弁証法的な関係性のなかに、疎外から自身を取り戻そうとする人間の——ある意味で誤っているが、しかし不滅の——欲望と努力が刻印されているとき、その努力の失敗として、つまり欲望の「去勢」という仕方で、初めて見出されるのである。実際、「眼球達磨式」のラストには象徴的な仕方でその「去勢」が描かれている。「物」の抵抗につねに包囲され去勢される「人間」というこの構図から上演されるのは、カント的ともマルクス的とも言える相関主義喜劇である。

声のインフレーション


さて同書『文藝』について「文芸批評時評」的観点からも一言言っておこう。そもそも『文藝』は非常に巧妙に特集を組む雑誌であり、今号「聞き書き、だからこそ」もまた、スポットの当て方に独特さがある。

いずれの論考・対談も魅力的で部分的には面白い。しかし、この特集では「当事者」〈声〉の現前性というものについて、あるいはそれを「聴取」し「無謬」のまま「記録」するという営為そのものについては(岸政彦「聞くという経験」では総括的に論じられてはいるが)実は哲学的/歴史学的/社会学的/人類学的に掘り下げられていないのではないか、という疑念もやや残る。また、その原因なのかその結果なのかわからないが、いずれの論考もマイノリティや被災者の「現場の声」をいかに「聞き取る」かというヒューマニスティックな方面に振れすぎていることが(その行為自体が問題なのではなくバランスを問題にしている)、逆に「聞き書き」という営為の普遍性を狭くしているようにも思われる。

この〈声〉のインフレーションは、群像新人評論賞の優秀作(今回は当選作と優秀作で二本あるが、その後者である)を受賞した小峰ひずみ「平成転向論 鷲田清一をめぐって」にも見られる。小峰は、SEALDsの運動を批判的に検討するために、同時期に「転向」したかのように見える鷲田の思想・実践を取り上げつつ、SEALDs運動の「総括」を目指す。ここで大きなテーマは、全体と個の機能不全の乗り越えである。「個人の言葉」と「民主主義」、「やまとことば」と「翻訳語」、ナショナルとインターナショナルの分裂から、いかにして有効で普遍性のある運動——「われわれ」を組織するか。これが小峰の問題意識である。そしてこの際鍵となるのが〈声〉である。

小峰は翻訳された言語ではなく、疎外された日常語(「やまとことば」)によって哲学しようとした哲学者たちを取り上げるが、要するに、鷲田は「哲学」(それ自体翻訳語である)の枠内に留まりながら、しかしその内部に他者との共同的コミュニケーションを通じた柔らかい日常的な言葉を導入し、またさまざまな臨床の現場に拡散させていくことで、翻訳語を生活の言葉とリンクさせ、哲学の「辺境」を生きようとしたというわけである。

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