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私の宗教観について

私から見たイスラム教、特にヒジャブについて、これまで感じてきたことを書いてみた。
(ヒジャブとは、イスラム教徒(ムスリム)の女性が髪の毛を隠すために巻いている布のことです。)

先に断っておくと、イスラム圏(イスラム教徒が多いところ)では、大抵の人は穏やかで、ニコニコしていて困っている人がいたら見返りを求めずに助けてくれるような、優しい文化圏だと体感してます。
ただ、イスラム圏の街中でヒジャブを巻いていないと、逆に変に目立つこともある。
一度だけ暴言吐かれたことと、ナンパの回数が変わることについて聞いてほしい。
もし嫌だったら★★★のところまで飛んで読んでほしいです。

・暴言吐かれたことについて(トルコ・イスタンブールにて)
空気が汚くて咳をしていただけなのに、「あなたの咳は性病だから離れてくれ。移ってしまう。」と言われたことがあった。
※ムスリム女性は婚前交渉が厳重に禁止されている。
かなり保守的なムスリム女性なんだろうけど、ローカルな土地ではこんなに閉じた考え方で、違う可能性も考えず容赦なく性病と言ってくる人が世界にはいるんだなと思った。みんながみんな、そうじゃないのはわかってるけどね、そういう人もいるんだなぁって、思った。
これが3ヶ月前に人生初めて人種差別された経験だったから、結構ショックだった。逆にこれまでされなかったのは有難い話です🙇🏻‍♀️

きっと、その人にとって、ムスリムではない人は婚前交渉の戒律がない分、性病を持っていると思ってることがわかってしまった。

・ナンパの回数が変わることについて(インドネシア・ボゴールにて)
偏見でものを言う人になりたくないけど、体験として実際に肌で実感したのでここに書きたいです。
無愛想でいるよりは、笑顔でいた方が、自分にとっても、多分相手にとっても、いいことが多いと思ってるので、海外で街を歩くときは大抵笑顔で過ごしがち。笑
そうすると、道でいろんな人が声かけてくれるんだけど、
ヒジャブつけてる時と髪の毛見せてる時とでは全然違うの。
(同じような時間帯に同じ場所を歩いて実感してるから、割としっかり対照実験になっていると思う。)

髪の毛出してる(私の通常)時は、すれ違う2人に1人はやっほー元気?😄調子どう?みたいな感じで話しかけられる。
客引きでもない限り、せっかく話しかけてくれたのにないがしろにはしたくないから、笑顔で適当に返事する。そうするとちょこちょこ会話になるんだけど、SNSやってる?どこに住んでる?彼氏は?って言われることもしばしば。
でもヒジャブつけていると、困っていたら助けてくれる程度。その流れで会話してくうちに日本人でムスリムじゃないことを明かすこともあるけど、明かしてからも対応は紳士!
そんくらい違う!!

まぁこれは外国人(日本人)の女に対するムスリム男性の態度という感じで、女性はまた違ってくる。
ムスリム女性は、ヒジャブつけてる時の方が気さくに話してくれる感じがする。
ムスリム女性になったことがないから心理はわからないけど、やっぱり人は自分と似ている人の方が親しみを感じるものだよねきっと。

何が言いたかったかというと、ヒジャブという頭に巻く布は、女性の身を守ることに繋がっているんだと実感したということです。

★★★本題
ところで私はここ(日本)で生まれたから持っている価値観に気づいた。
私は仏壇に手を合わせたいから、無宗教ではなくて、仏教徒なんだと思っている。
これは以前、宗教について話し合ったり、日本人のイスラム教への改宗について調べたり、考えたりした時に、気付かせてもらったこと。
イスラム教の考えで、素敵だなと思う考え方もたくさんある。
だけど、自分が改宗できるかどうかと考えてみた時、私は自分が生まれ育った文化で生きていきたいと思って、それが叶わなくなってしまっては、たぶん、生きてさえいけない気がした。
だから、私は、このままでいたいと気づけた。これは私にとっての大発見なの。
こうして、広く世界を見てから、だからやっぱり日本で暮らそう!と決めて、私が今いる場所に納得して居たいと思う。

私はインドネシアに行くまでは、特に自分の宗教やアイデンティティについて特に深く考えたことがなかったと思う。
インドネシアの前にフィリピンに行ったんだけど、そのフィリピンの時に、日本人が珍しいくらいで、海外の人たちは宗教についてすごく考えや信念を持っていて大切にしていることを教えてもらった。
そこで初めて、海外では「宗教≠タブー」ということを知った。

宗教に関して、生まれた時から周りの人たちがやっていて、物心ついた時には、もう生活の一部になっているんだと思う。
それで、自分と違う宗教の人が身近にいるような環境なら、大人になるにつれて自分の信条を考えたり向き合う時間ができるのかもしれない。
だけど、日本にいるとそういうこともあまりなかったんだなと。

それで私はやっと最近気づいたことがあって。
ムスリムの人に自分の日常をどこまで話していいんだろうなと思いながら、嘘はつきたくないなと思いながら、考えていた。
連絡をとっていて、これからどこに行くの?と聞かれて、初詣に行くよと言って、後日インスタに載せていたり、
お酒は飲む?と聞かれて、時々飲むよと答えたり。
あなたはムスリムじゃないからいいと思うよとは言ってくれたけど、ムスリムの人にとっては、多神教の神道や、お酒を日常的に飲んでいることをどう思うのだろうと考えた。
私はそれが悪いことだと思わず生きてきたし、それが”当たり前”の環境で生きてきたから、だから神道と仏教を信じる人間なんだなと気づいた。

生まれた環境で、考えが決まるとは、こういうことなのかなと、少しわかった気がした。
だけど、それで別につらくないなら、環境からの考え方に抗わずに受け入れて、アイデンティティとして認めていくことも自分の信条を理解していく一つの方法なんじゃないかなぁと思った。
最近思ったことだから、まだ上手く言語化できてないけど、これから少しずつ整理していけたらいいなぁ。




多神教の神道が、一神教の他宗教を受け入れることの方が、
一神教の宗教が多神教を受け入れるより、受け入れやすいと思う。
だから、戒律の緩い宗教の方が、寛容にみえる。
ただ、実際は戒律の緩い宗教が寛容なんじゃなくて、考え方や物事の捉え方が偶然、範囲が広いだけなのにね。と思った。

ずっと前から宗教観をまとめたかったので、やっと書けてひとまずよかった〜!

最後にインドネシアで暮らし初めて2ヶ月経った頃の2022年10月16日の私の日記を載せてみます🙇🏻‍♀️

※ジルバブと書いてますが日本語ではヒジャブのことです。
※インドネシアの高校生や先生方と関わる時には、うなじ、襟元、手首、足首、足の爪はなるべく隠すよう言われていました。
※礼儀正しく見えるというのはイスラム圏で生活する上での話です。

2022.10.16インドネシアのボゴール生活での日記

信仰のあり方は、神様と一個人の関係だから、第三者がとやかく言えることではない
というような考えがあるそうです。
ヒジャブをつけていない女性でも信仰してるなら信者だと言って第三者から怒られる筋合いはないし、
他の人からお祈りしなさいと言われる筋合いもないということだそう。
自分のペースで無理せず信仰していいんだよということだそうです。
素敵だね。

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