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好きなモノに触れる/自分時間の余韻と余白

先日整理したクローゼットから、宝島社の「音楽誌が書かないJポップ批評」シリーズが出てきた。懐かしすぎる。このシリーズ、今はもう無いのかな。

音楽には詳しくないけれど、批判ではなくて批評であるところが気に入って読んでいた。総じて、執筆しているライターさんたちの音楽愛がとても感じられる内容で面白かった。

103音楽誌が書かないJPOP批評

特にお気に入りはスピッツバージョン。中身も表紙のキャッチも大好きだ。あんなに爽やかなメロディなのに、歌詞がエッチの塊だったり生と死の間をさまよってそうだったり、「今、大学8年目ですー」と軽く自己紹介されても違和感の無い風貌だったり。まさに「ふしぎ☆発見!」的なバンドだ。

毎年ライブに行くGLAYバージョンとともに掃除中に読み耽ってしまい、整理が全然はかどらなかった。真剣に読めば読むほど笑っちゃうという謎展開。今回の掃除で、紙とは随分サヨナラしたが、この2冊は捨てられなかった。おそらく一生捨てられないだろう。

仕事で運転する時間が長いため、音楽は車中のオーディオやラジオで聴くことが多い。思い返せば、部屋でじっくり聴くことはここ10年ぐっと減った。以前はごはんをつくるときも音楽を聴いていたのに、いつの間か、生きるための術としてバタバタと料理して、バタバタと食べて、また仕事に戻るという習慣が染みついた。さらに良くも悪くもネットで他人の人生に触れることが増え、うまく消化できれば良いが、ただ情報を消費し、疲弊し、自分の時間を過ごすことがどんどんなくなった。

ここに引っ越してきたときには、こたつとテレビに、ベッドとカラーボックスが1つだったはず。あとは少しずつ、好きなモノ。好きな映画やドラマの映像、サントラ盤、お気に入りのCD、植物や動物の写真集、本、島の旅みやげ。けれどいつからか、それらを楽しむ時間、というより心の余裕がなくなった。

1日24時間であることは誰にだって平等。世の中はどんどん便利になるのに、そこに心地よい余韻も余白もない。いつもぎゅうぎゅうで、切羽詰っている。半年前のことだと思っていたことが、3年前のことだったと気づいて狼狽える。物事のスピードがはやすぎて、消化しきれないまま一日が終わる。

仕事のキャンセルが続いて3ヵ月。外出自粛生活中と自粛解除後の生活が何も変わらないという、別の意味でデンジャラスライフが続いているわけだが、逆に好きなモノに再び濃く触れる日々が続いている。買っておいたのに読まずにいた本を読んで、好きな写真集を眺めて、好きなミュージシャンのインタビュー記事やライブ配信を見て。ああ、そうだった。自分はこんな人間だったんだ。もう自分がどんな人間かすら忘れかけていた。

歳を重ねても、好きなモノはほとんど変わっていなかった。もしそれが、他人から見てかっこ悪くても、やっぱり好きなモノは好き。だけどそれらに触れて、程よい余韻と余白を楽しむためには、程よい労働とお金も必要。最後は生き方のバランス問題にたどり着く。

今月中にはなんとか仕事を再開させて、いい塩梅に生きていきたい。いつかまた、ライブに行ったり島を旅したりできるよう、外に向かう日のために助走しておかないと。



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