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特別インタビュー|写真家・宍戸清孝〈後編〉

前編〉に引き続き、写真家・宍戸清孝氏のインタビューを掲載する。

取材・文/「BUNBOU WEB」編集部

宍戸清孝(ししどきよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米し、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。宮城県芸術選奨受賞(2005年)。宮城県教育文化功労者表彰受賞(2020年)。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。日本写真協会会員。仙台市在住。


NHK? どこの新聞社?


―― 日本に帰国したあとも、第二次世界大戦に米兵として従軍した日系二世たちの撮影を続けられたんですね。

 そうです。アメリカから帰国して3年半ほどスタジオに勤めて、1986年に独立しました。それ以来、仕事の傍らで何度も渡米して、二世の退役軍人を中心に会って話を聞き、写真を撮らせてもらいました。

 ただ、フィルムですから、現像してプリントしてみないと写真の出来はわからないんです。最初の頃は自分では「撮れた」と思っていても、実際に焼いてみると全然ダメでね。だから、また渡航費を貯めては撮り直しに行くわけです。もちろん、相手は驚きますよ。「わざわざまた撮りに来たのか」って。
 すると、そのうちに日系二世の退役軍人らのあいだで少しずつ、そんな私の話が広がっていったんですよね。

 最も大きかったのは1994年にフランスで行われた「フランス解放50周年」の式典に行ったときでした。そこにいらっしゃった婦人がドロシー・マツオさんというハワイ大学の教授だったんです。
 マツオさんは『若者たちの戦場―アメリカ日系二世第442部隊の生と死』の著者で、ご主人のテッド・マツオさんはヨーロッパ戦線に志願した1人でした。

 ドロシーさんから「あなた、二世の集会なんかでもよく見かけるわね。日本から来たの?」と話しかけられたので「そうです」と答えると「NHK? どこの新聞社?」と。私が自分はフリーランスで、自分の意思で、自費で来たと言うと、ずいぶん驚くんです。
 そんな私の姿勢を気に入ってくれたんでしょうね。そこから次々に442連隊に従軍したダニエル・イノウエ上院議員や、マッカーサーと昭和天皇の通訳をしたカン・タガミ氏など、二世の退役軍人を紹介してくださったんです。

 私の家族ともどもハワイの別荘に呼んでくださったこともあるし、ご夫妻で日本旅行に来られたときには仙台にある私の事務所を訪ねてくれたりもしました。私が撮った二世の写真をまじまじと見て「よくもここまであちこちに通いましたね」なんて褒めてくださって。


仙台市内にある宍戸氏の個人ギャラリー

―― 二世の方々のもとには、どのくらいの頻度で通われたのですか。

 平均すると1年に1回か2回。多くても3回でしたね。行けない年もありましたので、とても長い時間がかかりました。フリーランスでやっているから、そもそも資金力がないんです。
 しかも、新聞社や出版社の仕事として撮りに行くわけではないですから、自分で渡航費用を貯めて、時間を捻出して行くしかない。こういう仕事は資金力が大事だなというのは身をもって実感しました。
 二世の方々もご高齢でしたから、いま行かないと会えないかもしれないというケースもままありましたね。

 実際にこういうことがありました。あるときに、ワシントンに住んでいる元GHQ情報部の方から電話があったんです。その方は日本語も話せて、取材の依頼をすると「じゃあ来週ね。楽しみに待ってるよ。空港に着いたら連絡して」と言われました。
 ところが、数日後にご家族からファックスが届いたんです。「父が、あの晩に亡くなりました」と。私に電話をしたあと、そのままベッドで亡くなっていたようです。
 娘さんの話では、私と交わした電話が最後の会話だったのだろうと。そういうこともあって、日に日に早く二世の方たちを撮らなければという思いが強まりました。


宍戸、おまえよく撮ったな


―― 宍戸さんが二世の退役軍人の方たちを撮りはじめた80年代は、まだまだ口を閉ざしている人も多かったそうですね。

 戦後50年の節目となった1995年あたりから、少しずつ話してくれるようになりました。日系人としてあの戦争に巻き込まれて、言うに言われぬ辛い思いをし、戦場に立った人たちです。話したくないと思うのは、ある意味では当然のことだったと思います。

 ロサンゼルスの寺院で二世の方に会えるというので行ってみたら、「ジャパニーズ・アメリカンと言うけど、僕はアメリカ人だ。何も話したくない」と言われました。
 実際に、真珠湾攻撃のあとで収容所に入れられた日系人のあいだでも、アメリカ側につくか日本側につくかで意見の対立があったそうです。とくに一世と二世のあいだの対立は酷かったようですね。

 彼らの口が重かった理由はほかにもあります。日本語が話せた人のなかには、情報部の要員となって、戦後もそのままGHQで働いた人たちがいたわけです。通訳や翻訳で占領政策の機密に触れることも多かったはずで、守秘義務がありますから話せないんです。

 そういう人たちも、戦後50年の節目が過ぎ、ご本人や仲間たちが高齢になって鬼籍に入る人も多くなってきて、歴史の証言として話せる範囲で話しておこうという気持ちになったのだと思います。
 私が取材を依頼した日系二世の元米兵の方々は全部で100人以上。取材を引き受けてくださったのは、半分に届かないくらいだと思います。そのすべての方々が、すでにお亡くなりになったか、存命でも施設に入られていますね。

―― 二世の退役軍人の方々が生き残っていたギリギリのところで貴重な証言を拾い、その姿を写真に撮って残すことができたのですね。

 嬉しかったのは、アメリカに住む日本人の戦争花嫁を撮り続けてこられた写真家の江成常夫氏から、伊奈信男賞を受賞した2004年にかけていただいた言葉でした。
「君は二世の人たちの写真を10年以上撮り続けてきた。10年かけてドキュメンタリー作品に取り組むというのは、ひとつの歴史をつくることなんだ。君はもう二世の立派な語り部だよ。歴史の語り部だ」と。

 最近、二世の写真を見ていると、なんとなく彼らの声が聞こえてくる気がするんですよね。「宍戸、おまえよく撮ったな」って。「ないお金を一生懸命に捻出して、よくあっちこっち俺たちのところに通い続けたな」って。
 苛酷な戦場を生き抜いてきた方々は、息子と同じくらいの年頃の戦争を知らない日本人の私に、本当に真摯に向き合ってくださいました。昔の日本人ってこんな感じだったんだろうなと思わせる毅然とした雰囲気の一方で、ああいう人たちこそコスモポリタンなのだなぁとも思いますね。

宍戸氏が日系二世の元米兵らの撮影に使用してきたローライフレックス2.8f


1枚でいいんだ、1枚が語るんだ


―― 宍戸さんはほかにも、長い内戦を終えて1993年に民主化選挙が実現したばかりのカンボジアを取材され、同年に写真展「カンボジア鉄鎖を越えて」を銀座のニコンサロンで開催されました。

 カンボジアでは1970年にクーデターが起き、泥沼の内戦状態になります。ベトナム戦争が終結したあとも、カンボジアでは毛沢東主義を掲げたポル・ポト派が100万人とも200万人ともいわれる自国民を虐殺し、内戦が続いたんです。国際社会の調停で和平が実現したのが1991年秋でした。

 その後のカンボジアを撮った個展が「カンボジア鉄鎖を越えて」でした。あるとき、尊敬する先輩が個展会場に来てくださって、ナポレオンの話をしてくれたんです。「宍戸、ナポレオンはあの時代に、いまで言うドキュメンタリーとして絵を残したんだ」と。

 ジャック=ルイ・ダヴィッドの《サン=ベルナール峠を越えるボナパルト》という有名なナポレオンの肖像画がありますよね。あれはナポレオンの人生のすべてを紹介したドキュメンタリーだと、その先輩は言われたんです。そして「宍戸、生涯に1枚、世界に残せる写真を撮れ。1枚でいいんだ。1枚が語るんだ」と。
「なるほど、面白い発想だな」「そういう考え方もあるんだ」と思いましたね。

 それから20年経ったある日、私のもとに思わぬ報せがありました。なんと、私がカンボジアで撮った1枚が、世界各地を回りはじめたんです。
 核兵器禁止条約の実現に尽力してノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)とSGI(創価学会インタナショナル)が共同制作した「核兵器なき世界への連帯」展が2012年から始まることになり、私が撮った写真が展示パネルに使われることになったんです。

―― その展示は、核兵器の問題点を安全保障だけでなく、人権・環境・経済・ジェンダーなどの面からも指摘して廃絶を訴えています。2022年6月現在、世界21カ国の90を超える都市で開催されているようです。

 もうそんなに回ってるんですね。展示の入り口を入ってすぐのところに使われているカンボジアの子どもたちの後ろ姿を捉えた写真が、私の撮った1枚です。
 不戦と核兵器廃絶の世論をつくるために役立っているなら、本当にありがたい話です。


〈前編〉はこちら


宍戸清孝写真事務所
https://www.shishido-photo.com/

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