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特別インタビュー|写真家・宍戸清孝〈前編〉
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特別インタビュー|写真家・宍戸清孝〈前編〉

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 1941年12月8日(米国時間では7日)――真珠湾奇襲攻撃によって日系アメリカ人らの境遇は一変した。米国本土に暮らしていた約12万人の日系人の大半が、裁判を経ることなく強制収容所での生活を余儀なくされたのだ。
 日系人が多かったハワイの事情は異なったが、まだ若かった日系二世らは〝敵性外国人〟との汚名を返上するために、アメリカへの忠誠心を強く示さなければならなくなった。ヨーロッパ戦線に従事したアメリカ陸軍の日系人部隊・442連隊は、常に最も過酷な戦闘の最前線に立つことになる。
 写真家・宍戸清孝氏は1980年以降、そんな日系二世の元米兵らを撮り続けてきた。インタビューではそのライフワークについてだけでなく、写真との出合いや氏の写真哲学、これまで知己を得た人々との思い出なども語ってもらった。前後編の2回にわたって掲載する。

取材・文/「BUNBOU WEB」編集部

宍戸清孝(ししどきよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米し、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。宮城県芸術選奨受賞(2005年)。宮城県教育文化功労者表彰受賞(2020年)。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。日本写真協会会員。仙台市在住。


すべてはトイカメラから始まった


―― はじめに写真家の道を選ばれた経緯について教えてください。

 私が生まれたのは1954年の仙台です。裕福な家庭ではなかったので、うちにはカメラなんてものはありませんでした。
 写真についての最初の記憶は、父親が借りてきたカメラでひとり息子の私を撮ったことです。私がまだ4歳か5歳の頃だったと思います。幼心に「写真って残るものなんだな」と興味を持ったんです。

 駅前の通りに写真店があって、ウインドウにカメラが飾られていたので、いつも前を通るたびにそれを眺めていました。
 たしか5歳のときだったと思います。いつものように母親と叔母(母親の妹)と3人で写真店の前を通った日のことです。なぜかそのときだけ、私はウインドウの前から離れなかったそうです。高級なカメラと一緒に、一光社の「start35」といういまで言うトイカメラが飾られていて、どうしても欲しいと思ったんですね。
 動かない私を見て、叔母が母親に「買ってやったらいいんじゃないか」と言ってくれて、それで「start35」を買ってもらったんです。

 自分でシャッタースピードを操作しなければいけない構造で、明るいときはシャッターを速く切る。曇りや雨の日はゆっくり切る。その感覚が幼い私に馴染んだんです。いまでも光をいかに捉えるかということが、私の写真の基本になっています。

 小学校の高学年くらいになると、テレビが普及してきました。ほかの子は歌謡番組なんかを見ているのに、私はそういうものにはまったく関心がなくてNHKの「現代の映像」や「新日本紀行」といったドキュメンタリー番組を夢中になって見ていました。
 その頃から、カメラを持って世界中を歩ける仕事に憧れるようになったんです。沢田教一さんがベトナム戦争の取材を始めたのもその時期で、新聞なんかで報じられている彼の仕事を見て「すごい人がいるんだなぁ」と感動していました。

5歳の頃に買ってもらった一光社の「start35」

―― 宍戸さんにとって一光社の「start35」が最初のカメラだったんですね。

 そうです。この「start35」は24枚撮りのフィルムを入れるんですが、フィルム1本分を1カ月くらいかけて撮り切っていたと思います。現像もプリントも費用がかかるし、父親にお金を出してもらうわけですから、1枚1枚を大切に撮りました。池の亀を撮ったり、プラモデルを撮ったり。とにかく、写真として「残る」ということがおもしろかったんです。

「start35」は、小学3年生くらいまで使いました。4年生のときに東京オリンピックがあって、おそらくその影響で父親がアサヒペンタックスを買ってきたんです。そこからは、私もそれを借りて撮るようになったんです。

 ずっと写真を撮り続けていると、失敗したものまでお金を払ってプリントするのがもったいなく思えてくるんですよね。そこで、まずは現像だけしてもらって、ネガを光に透かして確認するんです。そして、プリントするものを選んで鉛筆で丸を付けて、それだけをプリントしてもらう。だんだんとそういうことを覚えました。

 自分で自由に使えるお金が欲しかったので、中学生になってからは牛乳配達を始めました。高校生の頃には新聞配達や水道局のビル清掃もやっていましたから、結構稼いでいましたよ。750ccのオートバイを中古で買って、夏に北海道に行ったりもしましたね。もちろんカメラも持っていきました。


あぁ、清孝は知らねぇんだな


―― 日系二世に関心を持ったきっかけは何だったんですか。

 日系二世の存在を初めて知ったのは13歳のときです。青森県の米軍三沢基地のなかで叔父が働いていて、夏休みに遊びに行ったんですね。
 叔父は画家で、戦闘機にノーズアートを描いたり、米兵の子どもたちを相手に絵画教室をしたりしていました。

 夏休みに叔父の家に泊めてもらっていると、あるときに赤い革張りシートの外車が家の前にドンと止まって、立派な胸章と肩章をつけた将校スタイルの軍人が降りてきました。
 ただ、身につけているものは米兵のものなのに〝普通〟の米兵ではないんです。顔だけが〝日本人〟だったんです。

 とはいえ、軍人は英語で叔父と何かを喋っていました。秘密の会話をするために英語で話しているのかと思って、あとから叔父に「さっきの日本人、なんで米兵の格好して、英語喋ってたの?」と尋ねました。すると叔父は「あぁ、清孝は知らねえんだな。日系二世って言ってな……」と二世の話をしてくれたんです。
 真珠湾攻撃を境に二世たちの運命が変わっていったことを初めて知り、「そんな人生があるのか」と身体に火がついたような衝撃を覚えました。

 振り返ってみると、この出来事が原体験となって「自分も日本とアメリカの架け橋になるような仕事をしたい」と願うようになった気がします。ベトナム戦争の渦中で、ちょっと前まで叔父の家の隣に住んでいた米兵が戦死するような状況もあって、何か平和のための架け橋になりたいというような思いがあったんです。ませてたんでしょうね。
 同世代の友だちのあいだで流行っていた漫画なんてまったく興味がありませんでした。小学生ながら「ベトナム戦争なんていつまでやってるんだろう。早く終わればいいのに」なんて思ってましたからね。

 高校を卒業したあと、自分はどう生きればいいのかと身の振り方に悩みながら、最終的にはやっぱり自分で自分を訓練していかなければならないと思いました。どう生きるかは自分自身で決めなくちゃいけないと。
 それで、日米の架け橋になるなら、まずは渡米しかないと思って、アメリカに行くことを決めたんです。

―― それは何歳のときのことですか。

 25歳です。1980年の1月26日に、まずハワイのホノルルに入りました。正直に言うと、ハワイに入った頃はまだ〝自分探し〟でしたね。
 カメラは持って行きましたが、観光ビザではなくリサーチビザを取っていましたから、ある程度は現地で働くことができたんです。バーのパーキングで預かった車を洗車してチップをもらったりしていました。

 ホノルルで暮らし始めて少し経った3月16日、二世の元米兵であるトーマス・オオミネ氏にお目にかかることができました。
 真珠湾攻撃があってハワイに暮らす日系人たちがどんな運命をたどったのか。彼らは大統領に手紙を書き、志願して米兵となり、ヨーロッパ戦線に送り込まれていったんです。その壮絶なストーリーを3時間ほど話してくれました。「アメリカにこんな〝日本人〟がいたのか」と本当に衝撃を受けました。
 私は単純だから、もうとにかく「撮りたい」という衝動に駆られたわけですけど、まだまだ技術も乏しくて、なかなかうまく撮れないんです。彼らが味わったことがまったく写真に表れてこない。俺はいったい何を撮ってるんだと苦しみました。

仙台市内にある宍戸氏の個人ギャラリー


モノクロは思想と哲学です


―― ニューヨークに渡ったのは、どれくらい経ってからですか。

 ハワイに入って1年ほど経ってからです。ハワイで日本から来た報道写真家のお手伝いをする機会があって、将来のことを聞かれたので「ニューヨークに行って写真の勉強をしたい」と話したんです。
 そしたら、すぐにニューヨークにいる仲間に電話を入れてくれて「いま俺の隣にお前と同じバカがいるけど、使ってくれるか」って聞いてくれたんです。それで「じゃあニューヨークに来い」ということになりました。

 あるとき、ニューヨークの大きな書店にたまたま入ったときに、書架の上のほうにアンセル・アダムスの大型本があるのに気づきました。開いて見ていると英語の文章の中にイラスト入りで〝The Zone System〟と書いてあるんですね。一番深い黒の「Zone 0」から一番明るいハイライトの「Zone X」までを、適切な露出計測や現像処理によって表現する方法です。

 モノクロっていうのは、白黒というふたつの言葉で表現されているけど、その白と黒のあいだに含んでいるものがすごく重要な表現になってくると彼は語っています。白いものを強調させるのは黒だし、黒いものを強調させるのは白だと。
 じゃあグレーは何色で強調するんだって言ったら、その周辺の色だったり、反対の色だったりなんです。モノクロのなかにはさまざまな情報が入っているんですけど、カラーでない分、心で読むことが要求されるわけです。
 そのあたりの深いことが私のなかにしっかりと根付き、自分のものにできるまでには、そこから10年以上かかるんですけどね。

―― ハワイも含めてアメリカには何年いたんですか。

 2年半ほどアメリカで写真の修行をして帰国しました。30代になって、あるときに東京の著名な写真家の方にお会いする機会があったんです。「作品を見せてくれ」と言われたので、カラーとモノクロの両方を見ていただきました。

 当時の私がモノクロを撮っていた理由は、自分で現像できるからでした。カラーは自分ではできなかったけど、モノクロだったらできたんです。本当に安直だったんですよ。

 その写真家の方は、私の写真を見て「宍戸さん、カラーは現実を見せるんですよ」とおっしゃいました。それから続けて「世の中には色がいっぱいあるでしょ。カラーはその色で見せる。色でさまざまな情報を伝える。モノクロは思想と哲学です。あなたの思想と哲学をモノクロが表現するんですよ」と。
 ハッとさせられました。自分の思想と哲学とは何だろうと。

 いろいろ考えましたけど、まずは真剣さだと思いました。相手の尊厳をしっかり見つめて、それを6×6サイズにしっかり収めること。その写真家の方から言われたのは、「6×6は自分が的を絞ったものしか撮れないよ。何を撮りたいのかわからないと撮れないんだ」ということでした。

 モノクロと6×6の意味を教えてもらい、何度も何度も失敗を重ねて自分なりに行き着いたことがあります。それは、肖像写真で大事なのは「背景」と「佇まい」と「眼」だということです。

「背景」というのは、単に被写体のうしろに何が写るかという話だけではなくて、その人が生きてきたバックグラウンドまでを収めなければなりません。
「佇まい」は、やはりその人を物語る「佇まい」というのがあるんです。この「背景」と「佇まい」がマッチしていないと、その人の写真じゃなくなる。
 そして最後の「眼」は、〝自分はこう生きているんだ〟という言葉にならないメッセージが、写真に宿るかどうかです。ある人は険しく、ある人は柔わらかい「眼」。やっぱり最も大事なことは「眼」が語っているんですね。

「背景」「佇まい」「眼」――このすべてが6×6という正方形のなかにきちんと収まるかどうか。それが、私の肖像写真なんです。


〈後編〉はこちら


宍戸清孝写真事務所
https://www.shishido-photo.com/


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ライター×編集者×研究者のユニット「BUNBOU」が運営するnote。 文化・芸術・言葉を軸に、日本とアジアを見つめていきます。