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私の川端康成カレンダー 七月〜十二月

七月 文月 ☆(作中時間とマッチ)

古都

『古都』は有名な作品で、朝日新聞で連載された。簡単に言うと生き別れの双子の美人姉妹が、出会って、でも立場が異なるから…的な感じでまたお別れを言う話である。
一人は呉服商、一人は北山杉の加工の手伝いなどをしている。つまり、川端の大好きな格差の対比であり、令嬢と野生(どちらもいい子)の対比である。
古都はひらがなが多くてめちゃくちゃ読みやすいが、然しその言葉の選び方が大変きれいなので、きれいな作品になっている。
あとがきで、睡眠薬を飲みながら書いた、書いている時のことはよく覚えていない、というとんでもない告白をするやすなり。
今作は京都の観光小説の装いもあって、四季の季節を折々のイヴェントでくるみながら物語を運んでいる。が、京都に住んでいたところでこのような雅なイベントに立ち会う機会は私には一切ない。
ちなみに、主人公の千重子の住んでいるお屋敷は秦家住宅といって、ここは見学できる。

見学しておくと、間取りなど参考になるから、作品を読む時により立体的に見られるはずだ。
ちゃんと、冒頭に出てくるキリシタン灯籠のようなものもある(たしか)。
川端は今作を下鴨神社糺の森の裏手、泉川亭にて執筆した。同町内には目と鼻の先に、谷崎の潺湲亭せんかんてい(現石村亭)がある。

ここで書かれた谷崎の作品が『夢の浮橋』であり、主人公の名はただす
潺湲亭は日新電機が管理しているので時折見学の機会があるが、泉川亭は外資の持ち物のようで見学はできないが、写真集が存在している。
ちなみに見学にはお金がかかるが、私が行った時は近くの下鴨茶寮でランチを食べるパックだった(歩いて5分程度である)。


八月 葉月 ☆(作中とマッチ)

山の音

『山の音』は小津安二郎の『東京物語』みたいな話である。それのイカれた版である。
主人公信吾は自宅裏の山の音を聞いて、それを死の音のように思う。信吾の家族は既に破綻していて、それぞれに愛情はない。信吾が愛するのは息子の嫁である菊子であり、菊子と夫の修一は問題を抱えている。
修一は戦争帰りで精神がおかしくなっており、虚無的、彼は川端魔界の住人である。
修一は外で囲っている女と遊んで、その技を菊子にも振るう。そして、菊子の声の感じが違うことで、営みに変化があったことを悟る信吾だった…という変態お義父さんの話であり、ワンチャン菊子と俺、一緒に暮らせるんじゃね?的な息子の嫁と精神的に繋がりたい、という悲しい康成自身の気持ちが表出した作品である。てゆーか、ただの三文ポルノでは……?

菊子は聖女である。この聖女は、信吾が昔好きだったけど手に入らなかった女性が投影されている。これって完全に、 YAUNARI自身の話じゃないか?
三島由紀夫は何故かこの小説を絶賛していたが、三島由紀夫は何でも絶賛する嫌いがあるので、少し距離をおいたほうがいい。


九月 長月

東京の人

新聞連載作品であり、川端の最長編である。新潮版全集で二冊、文庫でも四冊という極厚。
私はこの作品が好きで、この作品には新劇女優の朝子という人物が出てくる。彼女が大変に魅力的で物語を引っ張る。
今作は、なんというか暗黒サザエさんみたいな話である。
まず、家族の大黒柱の親父は川端魔界の住人であり、虚無的で、蒸発してしまう。だからか、奥さんが宝石商をやって一生懸命家計を守る。
お兄ちゃんは変な運動にのめり込み、義理の妹が大好きでストーカー化している。その妹の朝子は劇団のイケメンに抱かれて結婚するが、この男が顔がいいだけの甲斐性なしである。義理の妹は清楚な聖女だが、御義兄様、気持ち悪い……と怖がっている。
延々とこんな話が続くので救いもないが、描写は美しいし、すらすら読めてしまう。
今こそ、ドラマ界は現代版『東京の人』を作るべきなのである。


十月 神無月

隅田川

康成の絶筆である。三島由紀夫は、川端のベストスリーに本作も連なる一連の作品を挙げている。これは住吉連作という三島命名の作品の、四本目である。
元々は三本かと思われたのだが、最後になって急にやってきた。
一作目は『反橋』、二作目は『しぐれ』、三作目は『住吉』、そして『隅田川』である。
全て、随筆のように始まり、芸術を語りだしたと思ったら、それがいつしか回想へと交わって、最終的にはふっと終わる。夢幻能のような構成である。
夢幻能は、史跡に行くと、そこに縁のある幽霊みたいのが顕れてひとしきり語ると、ふっと物語は終るのである。

全て、あなたはどこにおいでなのでしょうか。という言葉で締め括られる。これは、川端の幼少期の思い出を浚いながら、亡き母を探す魂の彷徨の言葉そのものである。
そして、『隅田川』において、最後には彼はやたら死を意識し、尾崎放哉の句、『咳をしても一人』を呟き、若い娘と心中したいと宣う。
三島は二番目の『しぐれ』が優れている、と語っていて、『しぐれ』では双生児の娼婦が登場し、この娼婦と主人公と友達を交えての乱交に耽るのだが、その時に、双生児のどっちがどっちかわからなくなる、どちらと交わっているのかわからなくなる、というこの倒錯的な場面が出てくるが、これですら川端は美しく描写するのだから恐ろしい。
そして、『隅田川』のラスト、締めくくりの言葉はもう、あなたはどこにおいでなのでしょうか、ではなく、双生児の娼婦と出会ったこともあった、と
『しぐれ』でのことを述懐し、それも今は昔となりました。と、まさに最後にふさわしい、彼の人生全てが風化していくような、虚無の筆をここに完成させる。もう、孤独でしかないことを悟るのである。完全に人間を信じていない男である。彼は、最後まで一貫している。

謡曲『隅田川』は、子を失って狂女となった母の物語である。


  1. 十一月 霜月 ☆(作中とマッチ)

    伊豆の踊り子

    康成作品で、1.2を争う有名作品であり、誰も聞いた覚えのあるタイトルである。
    「道がつづら折りになって〜」の冒頭は見事な導入部だが、基本的に康成一人旅の最中に出会った旅芸人一座との道連れの旅の日々を書く。
    康成はこの頃失恋したり、色々辛いこともあり、完全に落ち込んでいるのだが、彼等と出会って旅をして、人間性を快復するというような話で、恋愛というよりも、人間愛に近い。
    「あの人、いい人だね。」「いい人はいいね。」という、彼女たちの何気ない会話を少し離れた場所から聞いた康成は胸を熱くする。
    「旅の一座、この村入るべからず」という立て札が出てきたり、この時代のそういう立場の人の扱いを書いていて、康成は一高生(東大)のエリートなので、この一座とは完全に層が断絶しているわけだが、彼は元々そういう立場の弱い人間、女性というものに興味を惹かれるようで、この先に登場する人々もそういう階級差が如実に描かれていることが多い(『雪国』や『浅草紅団』、『温泉宿』など)
    この頃から、彼は特に大きな感情の動きを描かずにして描く方法を体得していて、踊り子との別れのシーンはその頂点かもしれない。
    遠く出てしまった船からかすかにだけ視えるシルエットが手だけを振る。この描写は百の言葉よりも心に残る。

十二月 師走 ☆(作中とマッチ)

雪国

『雪国』は『禽獣』の発展型とも言える。『禽獣』は禽獣の類を可愛がり、
その実死んでしまうと粗雑に扱う主人公が現れるが、この観察者の目を通して、生き物と女の美と虚無が描かれていて、それは康成自身の虚無性の鏡なわけだが、『雪国』では更に舞台を冷たい雪国に設置し、そこでは主人公島村の、上位階級の男が下位階級の女の生き様を見つめて、そこに美を見る、
人生の徒労さ、いや、島村自身の虚無性を女性たちにまで押し付けて、その眼鏡をもってして観察する、透徹した冷たい伽藍堂
が描かれており、然し極限まで削ぎ落とされた文章は散文芸術の高みにまで昇っている。

然し、これは康成ちゃんが何度も、十年何年も推敲して、継ぎ足し継ぎ足し完成させた、なかなかにサクラダファミリア感のある作品なのである。
康成ちゃんは、掲載誌を変えての断続連載というなかなかにイカれたことをよくするので、例えば『ハンターハンター』で言うならば、今年はジャンプで、来年はサンデーで、再来年はマガジンで、その次はチャンピオンで、
みたいな感じなので、普通の読者は気づきもしない。

『雪国』は紛れもない名作で傑作ではあるが、物語はないに等しい。
いや、康成の小説は、実際には物語はないのである。そして、彼の作品というのは、詰まるところ全て私小説なのである。
谷崎は自身をカリカチュアして作劇を完璧にし、物語世界を構築したが、康成はそこまで自身を捨て置けない、作中の人物がアルターエゴに成りきれない、仮面をかぶったままの本人でしかなかった。然し、彼の妖しい筆さばきは確かな美しさを持っていたため、たちの悪いことに彼自身よりも、その周辺の女性、芸術が発酵しはじめて、作品は一つの花と化したのである。そうして、不思議なことに普遍性を帯び始めた。

カレンダーと言いながらも、その実半分くらいはマッチしていない。けれども、実はいつ読んでも、康成文学は面白く、怪しく、禍々しいのである。

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