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処女作ってどれを指すの?

『十六歳の日記』は川端康成の処女作である。
川端康成は1歳半くらいで父親を、2歳くらいで母親を亡くしていて、16歳で最後の肉親である祖父を亡くした。

その、病床にいる祖父との日々を綴ったのが『十六歳の日記』である。川端は天涯孤独の人で、その後も、母親を恋うる話を定期的に書いている。『住吉』の連作などがそうである。『少年』という自伝的な作品もあって、これと『伊豆の踊り子』のラストに出てくる少年など、少しボーイズ・ラブの時代もあったようだが、初代に恋してからは、ずっと女性ラブである。

今作は、27歳の川端が自身の日記を発見して、それを処女作として世に出したわけだが、人によっては、16歳の頃の日記をいじって出した、27歳の川端の作品だという評もあった。

どこからが処女作になるのか、それは人によりけりだと思う。
よく、初めて書いた小説、という言葉があるが、それは本当に初めてなのかどうか、特にプロでこれを言う奴は、私は基本嘘つきだと思っている。お金目当てで〜の方がまだ信用できる。
まぁ、小説家なんて嘘を書いて生計を立てているわけだから、そういう意味で合格なのだろう。
初めて書いた、とは、厳密に、どのレベルを指して初めてとしているのか。
絵描きでも、初めて描いた絵が評価されるなんて、稀としか言いようがないだろう。
そこに素質を見出すことはあれど、天才は除けば、大抵は拙いものである。

気合を入れて作品として初めて書いた(描いた)というのならば、それはそういう風に書いて欲しいものである。

川端康成はそういう意味で、16歳で『十六歳の日記』という作品を意図せず遺していて、未来の川端がそれに再会した。
そこには、『尿瓶の底に清水の音』、という、祖父の尿を尿瓶で受け取る様を表現した文章があるが、ここが今作で一番いい所である。
汚いものを、美しく書く、彼の天禀がここに垣間見えるからであり、この描写は汎ゆる所で高く評価されている。


谷崎潤一郎は処女作というか、デビュー作は『刺青』である。これは永井荷風に激賞された。谷崎潤一郎24歳の作品である。

ちなみに、新潮文庫の『刺青』に収められている作品では、『二人の稚児』という作品が美しいのでおすすめである。
『刺青』は寝ている美しい女の背に蜘蛛の入れ墨を施すことで、女性の魔性を引き出してしまう短編である。
まるで、『HUNTERXHUNTER』のツェリードニヒである。
ツェリードニヒは間違いなく青髭公をモデルとしていると思うが、どうか。

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青髭公はたくさんの妻たちを城に監禁し、拷問惨殺を施した。青髭公のモデルであるジル・ド・レイは八百人の少年を惨殺し、食べたりしている。そして、ツェリードニヒは顔はイエズス・キリストがモデルだろう。
ツェリードニヒは女性を誘拐して刺青を入れて惨殺する変態野郎で、青髭公とは興味が重なるようだが、ジル・ド・レイとは異なる。
ジル・ド・レイは少年を愛し、聖歌隊を指揮していたから。

話が逸れてしまったが、『刺青』は谷崎潤一郎という作家の素養を注力したような作品である。女、悪女、魔性、その女の肥やしになる男(という設定が好きな本当は男尊女卑の谷崎という親父。Mと言いつつ、相手にS的な行為を無理やり求める)と、最終作に至るまでの骨子は出来上がっている。

処女作には、ある種その作家のすべてが表出される。
然し、ある程度の作文、試し書きを経た上での処女作であり、本当の意味で初めて書く人は少ないのではないか。

本を読むことは、文章を綴ることに通じる。読んで思考することが、既に作文であるからだ。読書をしている人は、既に準備体操、或いはトレーニングをしているわけだ。実戦に向けてのトレーニングである。初めて書いた、人、とは読書量が多い、とも言えるだろう。

映画監督も同様の傾向が見られる。処女作にはすべてが込められていて、2本目、3本目あたりが傑作になる。言いたいこと、描きたいことが実感を持って掴めてきて、それを技術として組み込み、テーマを深化させ、かつ熱情は滾っている。
これが5本目、6本目になると、だんだんと薄味になる(無論、多作でも素晴らしい作品を撮る監督はいる)
例えば、リドリー・スコットの映画のクオリティは常に高いが、2本目が『エイリアン』、3本目が『ブレードランナー』である。彼はCM監督としてのキャリアがとても長いから、少し話は違うが。

処女作は、世界に自分の存在を謳うものであるから、特別なものである。
この作をこそ処女作としたかった、と思う人もいるのではないか。
処女作には、出来不出来は関係ないのである。そこに、その人だけの素養が輝いているかどうか、読み手はその感性を掬っている。だとしたら、初めて書いた作品でも、評価はされる道理はあるわけで、先に書いていたこととは矛盾するが、まぁ、世界はそのものが矛盾であるから、許してほしい。

誰でも処女作が書ける、一本は小説が書ける、とはそういうことである。訴えたいことや、思うことが必ず一つはあるのだ。スランプになるということは、もう言いたいことがなくなった、ということだろう。


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