成功者でも敗北者でもない、普通の人生 『遠雷』
遠くで雷がなることを、遠雷という。
『遠雷』という、立松和平の小説があって、これを私は読んでいないが、然し、映画版は猛烈な傑作だと思っている。
1981年の映画で、アート・シアター・ギルド、すなわち、ATG映画なわけだが、監督は根岸吉太郎、そして、主演は永島敏行だ。
永島敏行、と、いえば、『サード』を思い出す。
『サード』は1978年の映画で、少年院を舞台にした話だ。サードとは永島敏行演じる主人公の渾名で、彼は高校野球でサードのポジションだった。然し、虚無的と言うか、新時代的というか、お金欲しさに女友達と初体験をした後、彼女たちを売りにいく。所謂女衒である。まぁ、女衒をしていてヤクザと揉めて……的な話だが、まぁ、永島敏行が三島に見えて仕方がない。
これは寺山修司が脚本だが、原作がある。寺山修司的な感覚が横溢しているが、そういえば、寺山修司は野球に関して、あれは、ピッチャーとキャッチャーの恋愛関係をバッターや他のポジションが邪魔をするゲームだと、そう言っていた。延々と、二人の愛のボールのやりとりが続く。だからキャッチャーは女房だというのだと、まぁ、そんな感じのことである。
まぁ、ボール、バット、そしてミット。これほどまでに露骨なスポーツはないだろう。
話がだいぶイカれた方角に逸れたが、軌道を戻して、まぁ、永島敏行、である。そして、『遠雷』である。
遠雷は栃木県を舞台にしているため、栃木の方言は飛び交うが、その方言の心地よさ、というか、もう、鑑賞後には、栃木弁を真似して会話してしまうこと請け合いの、あの快楽。
で、主人公の満夫はトマトの栽培に精を出している農家の人で、トマトのビニールハウスでは夜に精も出している。ビニールハウスでセックス、なーんて、泥んこが気になっちゃうヨ。
とにかく、これは、和製『パルプ・フィクション』であり、いや、全然、事件みたいなことは起きない、起きないが、然し、その、Dialog、つまりはタランティーノ的な映画とでも言おうか、とてつもない会話の快楽に満ちているのだ。満夫だけに。なんつって。
まぁ、おっぱいも山程出るし、永島敏行は気がついたら胸に顔を埋めている塩梅だ。まぁ、そんなもんだ。石田えりはすごい脱ぎっぷりだ。
永島敏行と石田えりはお見合いで、ご趣味は…からの流れで、後は若い二人で…の流れになり、車に乗るやいなや、二人はもう余所行きの仮面を外してざっくばらん。さっそくモーテルに行って、さぁ、ヤるかー、もう、あんたばかー?というノリである。
脚本は荒井晴彦だ。この脚本はよく出来ている。映画脚本と、役者の演技と、監督の演出が、あまりにも見事に結びついてる。とんでもない傑作だ。
そして、この主人公の親友を演じるジョニー大倉が良いのだ。ジョニーは最後、殺人の告白をするのだが、そのシーンはすごい演技だ。長回しだが、めちゃくちゃ鬼気迫る演技である。それを見る永島敏行の目。その目の凄さ。70年代に作れば、ジョニー大倉にシンパシーが入る映画になったのだろうと、そう監督は言うが、然し、監督は、三面記事に載る側、つまりは映画の主役や題材に成り得る人ではなく、三面記事を読む側を主役に据えたのだと、そう言っている。
つまりは、この、noteで日々何かを書いて、真面目に仕事をこなしている、そのような平凡な人々、そのような人々が主役である。つまりは、貴方である。何か起こるわけでもなく、まぁ、仕事、セックス、友達、お酒、趣味、そして、メインイベントが結婚式だ。結婚式がメインだなんて、古い価値観だ。今はそういう時代じゃない。
然し、そうそう、人生には山場などないのだ。寧ろ、平場が延々と続く。人生の平場が。その平場は、他人からはつまらないものに見えるだろうが、本人は必死である。山や谷など、普通の人間には到底上り下りできない。然し、平場ですら、間近で見れば、そこには凹凸があり、必死にそこにしがみつくのが人生である。
人生は常に遠雷が遠くで鳴り響いている。それは未来かもしれないし、対岸の火事かもしれない。
今作は、急速に都市化する地方での農業や生活環境の変化などを憂いているらしいのだが、まぁ、いつの時代もそれは変わらない。幸福な人間などいない。幸福は状態であって、いつも幸福などありえないのだ。必ず苦悩が訪れる時があるのだ。
それは、誰でもそうで、平凡な、市井の人々にも、大なり小なり、そういう辛さが訪れるのだ。いや、ずっと辛さの中にいる。だから、幸福に触れた時、辛さで涙がちょちょ切れるのだ。
そんなときは、カレーライスだ。近場の喫茶のカレーライスを食う。そして、漫画雑誌を読む。或いは、トマトを食う!トマトは身体にいいのだ。しかもカレーにも合う!トマトをいつだって私達を救ってくれる。
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