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九龍大厦

唐突だが、私は九龍城砦、九龍城が好きである。

私の物心がつく頃には、九龍城は取り壊されていた。九龍城は1994年に取り壊されたのだという。
これは、『ゴジラVSスペースゴジラ』が公開された年で、私はこれを、京都宝塚劇場で観ていた。スペースゴジラは格好良かった。
やはり平成ゴジラのVSシリーズは最高だ。スペースゴジラも好きだが、
『デストロイア』も最高に好きだ。作品としては、実は『VSモスラ』が好きだ。
小林聡美と別所哲也が元夫婦の役で出ていて、なんというか、男女の一度終わってしまった仲、というのが異様に生々しく、この二人の存在感がゴジラとモスラを凌駕している。
とはいえ、私はバトラが好きで、バトラは幼虫形態の方がカッコいい。大きな角があるのだ。子供は角が好きだ。角は強さの象徴である。然し、成虫形態になると貧弱極まりなくなる。当時は映画館は入れ替え制だったので途中から入ったが、ちょうどバトラが海を泳いでいるといきなり変身して成虫になるシーンだったような気がしている。あのイメージが強烈で、私はインプリンティングされてしまったわけだ。

まぁ、それは別の話だ。九龍城砦である。九龍城砦といえば、『GetBackers-奪還屋-』であり、九龍城砦といえば、『クーロンズゲート』であり、九龍城砦といえば、『シェンムーⅡ』である。

イカれた連中しかいないという。
イカれた連中しかいないという…。

とにかく、九龍城は東洋の魔窟と呼ばれていて、伝説に事欠かないし、
そこに住んでいた日本人も何名かいたそうだがが、羨ましい限りである。然し、私は潔癖症なので、いざ住め、と言われたら、ごめんなさいしてしまうかもである……。
九龍城はとても好きなので、写真集も購入したりした。

写真で見ると内部は案外牧歌的であり、求めていたハードな電脳世界とは異なる。
私的には、弐瓶勉『Noise』の街くらいの電脳と魔術が融合したデスシティ、或いは、カール・アーバンがかっこいいリメイク版『ジャッジ・ドレッド』のメガシティワンくらいのハードさでもって、私の脳髄を刺激してくれるのかと妄想して購入したが、やはりそこまでの激しさはなかった。

妄人わんにん、ではないけれども、やはり、人間、妄想力と想像力で生きている。手品の種を明かされると急激に萎えるのと同様、実際の性行為よりも、それに至るまでの過程、或いは、テープによりめられた袋とじにまつわる伝聞に欲情する種族なのである。

まぁ、実際に行ってみたら、きっと、とんでもない場所なのだろう。
そんな九龍城に近いと噂の重慶大厦チョンキンマンション、これは是非とも一度は行きたい場所だが、やはりそんな重慶大厦、これはもう、『恋する惑星』だ。

『恋する惑星』の映画の内容など、今更話すことなどない。
ウォン・カーウァイは語り尽くされているし、私はウォン・カーウァイの良いファンではない。
『恋する惑星』が醸し出す匂い、90年代のかほり、それこそが重要なのだ。
私にとり郷愁は80年代と90年代、青春は00年代、といえる。
90年代は子供の私ですら、異様なカオスの充満する世間の雰囲気を感じ取っていた。サブカル界隈はこれから爆発するインターネットの導火線がジリジリと燃え続けて、インターネッツは友人の家のパソコンで触らせてもらっていたが、まだ遠い遠い場所にあった。

私は、『FFⅪ』がプレイしたかったのだ。あの、パシフィコ横浜で発表されたスクゥエアミレニアムでの、『FFⅨ、FFⅩ、FFⅪ』の3本同時発表。しかも、2000年夏に『FFⅨ』、2001年春に『FFⅩ』、2001年夏に『FFⅪ』、
という凄まじい計画だった(実際には『FFⅩ』は春から夏に延期し、『FFⅪ』は翌年5月に延期になったが)。私はここで描かれたPlayOnline構想に度肝を抜かれ、まだ見ぬMMORPGに夢を見た。


然し、私はそれから20年経っても、実はMMOPRGをプレイしたことはない。

まぁ、とにかく、ゲーム界隈も凄まじいパワーがあり、サイバーな世界がより実像を伴ってやってきたといえ、まだまだ未知の魔導めいたものだったのだ。この電脳魔導と九龍城のあの配線だらけ内部や雰囲気は頗る相性がいい。
1982年の『ブレードランナー』におけるネオンと酸性雨の街は1997年の『FFⅦ』に引き継がれていき(けれどもリメイクはサイバーパンクよりもスチームパンク味が強かった)、その『FFⅦ』のミッドガルのイメージは、1997年の『クーロンズゲート』とも重なっていく。
そして『恋する惑星』におけるフェイ・ウォンは1999年の『FFⅧ』の主題歌の『Eyes On Me』を歌うわけで、野島一成が好きでなかったら、フェイ・ウォンは選ばれなかったかもしれないし、畢竟、『恋する惑星』は常にこれらの作品の周りを絶対に公転していたのである。

野島一成氏が主題歌会議の際にフェイ・ウォンのCDを滑り込ませた、この逸話が正しいのだとすると、たった一人の嗜好が世界を変えていき塗り替えていく。それは必然であったかのように。それが数百万という人間の郷愁に作用することは、恐ろしいことである。然し、そのようなことは今もまだ繰り返されているのだ。思わぬ行動が、思わぬ場所において、思わぬ人々の郷愁を形作る。



『Eyes On Me』は素晴らしい名曲であるし、やはり、他のFFの主題歌と比べても頭一つ抜けている。私はこの曲が好きで、偶に聞いているのだが、やはり香港の香りただようフェイ・ウォンの声が、
よりミステリアスに無国籍な曲にさせている。
で、九龍城だが、然し、この九龍城、写真集に載っている屋上の夕焼けなどを見ていると、
これまた私に郷愁を与える。私は、このような場所に行ったこともなければ、見たこともないのに。
これも何かの差し金なのかもしれない。識らないうちに、どこかの誰かが、私の心にジャックする数多の作品をばら撒いている。それが畢竟藝術といえるものかもしれない。

現在も、九龍城に纏わる作品は発表されたりしているが、まだ手に取っていない。私の九龍城は、記憶そのもののように混線している90年代だからだ。




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