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ウルフ


19世紀のイタリア貴族もかくやの香りをまとって、青年はバスに乗り込んだ。昼日中で、人も疎らだった。
後部座席に陣取って、陽の光を受けながら、バスが発車するまで、青年は先程までいたカフェをじっと見つめる。指先に、まだあの女の匂いが残っていた。いい匂いは好きだ。女は仕事に行くのだと言って、コーヒーを半分残して行ってしまった。カップには紅がついていた。青年は、もう湯気の立たなくなったそのカップをじっと見つめていた。付着した紅は、指紋を思わせた。そうして、女が立ち去った時、辺りに漂った匂い、あれは、シャンプーかリンスか、女の部屋でそれを使ったとき、自分の手に残ったそれがもう自分のものであると同時に彼女のものであるということに、他人を感じたものだった。他人の匂いを自分がまとう、そうすると、常に他人が思い出される。女の唇の硬さは思い出せなかった。ただ、女の存在、顔、そうして声は、指先からの匂いで簡単に思い出せる。紅の色はもう朧だが、あれも指紋と同一だ。唇や指先など触れることを存在理由としている器官は必ず痕跡を残す。それが縄張りを主張する牡犬か牝犬と同様なのか、知る由もない。
バスが停まり、何人かの乗客が入ってくる。青年は、彼らが自分にとり、どこまでも脇役であるのは、匂いが、或いは臭いがないからだと感じていた。人生で、自分の中に入ってくるのは匂いか臭いを持つ人間だけで、無味無臭は書き割りと同義だった。美しく描かれていてもそれはやはり口臭もない偽物で、青年には現実感がない。それならば、もう既にいなくなった女の残した紅のほうがいくらか実存に近いだろう。
鞄から本を取り出して読み始める。それは大抵の人が読んだこともなければー、いや、名前すら識らない作家の書いた詩集だった。それは青年に勉強だった。彼は詩人だった。詩人になりたいのだ、そううそぶいて、女の家に転がり込んだ。女を何人か孕ませては逃げた。だから、自分の子どもが何処かにいるのかもしれない。そのような妄想が時折脳みそから股間に伝ってくる。いや、これは逆だったのかもしれない。そういう妄想が先で、それを現実にするために女を孕ませたのか。今読んでいる詩集は、詩集なのか、小説なのか、或いはそのどちらでもないのか、青年にはわからなかった。詩集と書いてあったからそう認識しているだけで、そう書いてなければ、例えば、写真集だと書いてあれば、それは写真集になるのか。名前が先か幻想が先か、それが問題だった。詩は幻想だと思っている。女は唇を吸われるときに、いつだって誰だってイエス・キリストに抱かれている尼僧のようになる。彼女たちは幻想を見ていて、ある種詩人になって交尾に励んでいるのかもしれない。青年は、ゆっくりと、呟くように、そこに印字されている文字を読み上げていく。彼の囁きは彼の耳以外には届かない。紙の匂い、インクの匂い、それが、青年に様々なことを思い出させた。匂いに執着している。匂いが青年にそのものの存在価値を与えていた。
青年が乗り込んでから何度目かのバス停で、バスは停まった。どこまで来ているのかわからなかった。適当な場所で降りて、誰かから金をせびれば暫くそこで時間を潰せる。この詩集を読み終えたら、そのバス停で降りよう、青年はそう考えた。何人かの学生が乗り込んできた。匂いでわかった。思春の頃特有の、安い洗剤の匂い。青年は、ちらと目を上げた。女子学生が二人、つり革に掴まって談笑していた。その声は、他の誰かと変わるわけでもない、何の特徴もない声だった。視線を他所へ向ける。すると、椅子に座った少年が見えた。美しい匂いがして、青年は驚いた。じっと、女の匂いのする指先を鼻に近づけて、彼を見つめ続けた。女の匂い、自分の香水、それから、少年の美しい匂い。視線を奪われると、もういけなかった。その少年は時折窓外を見つめて、その横顔が美しいのに、青年は狼狽した。青年は、男に興味があるわけではない、女を愛していた。何十人と女を抱いた。一度、バレエを習っていた時、青年を美しいと言ってくれた講師がいて、彼を弄んだことがある。彼は、一時期天才と持てはやされて、小さいけれど、自身が主催するバレエ団を作ったことがある、その界隈では有名な人だった。その時は既に50近く、然し、均整の取れたその肉体と、少年のような笑顔は、青年を一時いっとき虜にさせた。自分を超える男の子を育てたいんだ、そう、彼はベッドで言っていた。青年は、そう夢を語る彼を見つめながら、若い頃の彼はとても美しかったのだろうと、そのギリシャ彫刻めいた横顔から、過去を推察した。彼は、青年に自分を見ているのだ。彼は、美しかった頃の写真を見せてくれた。それはモノクロのポートレートで、ヌードだった。裸の自分が、裸の男性のポートレートを持ち、その被写体もまた裸で誇らしげにしている。妙な心地だった。写真の中の彼は、今とは比べるまでもない、神話の中の人。それならば、俺も彼にそうなのだろうか、自尊心がくすぐられた。彼がいくら同じように鍛えて、同じようなポーズに化粧を施しても、この写真は二度と生まれない。
青年は、少年から目が話せなかった。少年が乗ってから3つ目のバス停にバスが止まると(ほら、これでもう幾つ目のバス停か全くわからなくなった)、少年は立ち上がり、そのまま降りた。青年は慌てて降りて、彼の後をつけた。詩が口をついて出てきていた。美しい匂い、それを形容する言葉が思い当たらなかった。ずっと、星や森や海や宝石や神様の名前を唱え続けた。それらは全て匂いを伴わなかった。何れも空虚だった。
少年は、青年に気付くことはなかった。青年は、ずっと後をつけた。ずっと、ずっと。少年は信号を渡っていく。渡り切ると少年は立ち止まり、こちらを振り返った。一瞬目があったように思えた。きれいな睫毛で、ショーテルが連なるようだった。少年は、レモンイエローのネクタイをしていて、薄い桃色の唇をしていた。途端に、あの女がコーヒーカップに残した紅を思い出した。カップに縁取られた紅の色が霧散して、どのような形だったのか、崩れてわからなくなった。少年は、また向きを変えて歩き出した。俺は、はじめて、美少年を尾け回している。そのことに、青年は不思議な高揚があった。だんだんと、気持ちが急くのに連れて、少年との距離が近づいていく。あの美しい匂いは何だったのだろうか。少年との距離が近づくほどに、それがもう、鼻先にまで香ってきそうだった。そうして、いつしか、その距離は1メートルにも満たない。黒黒とした髪は宇宙のようだった。彼の声は、彼の、名前は。識らないことがこれほど嬉しいことだと思わなかった。つまり、これから知る、ということへの希求が、青年に満足感を与えた。
途端、少年が振り返った。同時に、門が閉まった。少年は初めて青年を見つめた。そうしてにこりと微笑んだ。そこは学校だった。櫟の木立の奥に、教会めいた校舎が立っていて、少年はその中に消えていった。ここに入ることは、もう青年には出来なかった。ただ門の前で立ち尽くしていた。

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